T 海のうた

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周建ツヂャウジーウンは、鏡の中の自分を見た。溜息。
実年齢より10は年取って見える。痩せぎすな身体。
昔の面影は全くない。
サッカー界にいた頃は、筋肉が余すところなくついていて、顔も頬がこけてなどいなかった。
トレーニングに明け暮れた日々。

周建ツは、薄汚れた上着の内ポケットから写真を取り出した。
ずっと、肌身離さず持っているせいで、筋がたくさん入ってしまった。
枯葉のような手で伸ばす。

写真の中の女は笑っていた。
日本人には珍しく、目鼻立ちがはっきりしていて、バランスがとれた顔。
染めた髪は肩まで伸びるくせ毛。
制服を卒業して、背伸びがしたかった。と、スーツをまとった彼女。
むしろ会社員に見えないか。と、心配していた。大学の入学式。
もう、4年も前のことだ。

あの頃は、公私共に充実していた。さらに充実していくはずだった。
それなのに。
周建ツは、薄く、罅割れた唇を噛んだ。血がにじむ。

窓の外を見る。自国にいる。と、錯覚させられる風景。しかし違う。
ここは、カナダ。ブリティッシュコロンビア州バンクーバーにある、チャイナタウン。
北米でも大規模を誇る。

 「建哥ジーコー。」

ノックもなしに―――薄っぺらいドアだが。広東語で兄貴分を意味する言葉を発して、入ってきた男。
安っぽい携帯電話を手渡した。周建ツは受け取った。
相手は、尋ねなくともわかる。
蔡富剛サイフウゴウ

 「毎日連絡をしろ。と、いったはずだ。」

凄みの効いた、太く低い声。

 「すみません。蔡先生。」

 「フレッドだ。ケン。何度言ったらわかる。」

周建ツの広東語に、癖のある英語が返ってきた。

 「すみません。フレッド。」

もう一度謝るハメになる。勝手に名乗った英語名。腹を抱えて笑いたい。
容姿からは全く想像ができない。良く肥えた黄色人種。何が、フレッドだ。
その狗の自分も同じ穴あのムジナ。自嘲。

 「春節までには間に合うよう、急ぐんだぞ。」

有無を言わせない言い方。
窓の外を見渡した。来月には雰囲気がさらに自国化する。
どの軒先にも赤い紙が張られ、爆竹の束が吊るされる。
世界中の中国人が浮かれ狂う。
しかも、来年は新世紀の幕開けだ。

周建ツは薄汚いシャツの胸元を合わせた。
家の中だというのに、隙間から冷たい風が入ってくる。
バンクーバーの冬は嫌いだ。
長雨が多い。空が暗い。寒い。

周建ツは空を見上げた。
どんより厚い雲がゆっくり流れてくる。
自国に帰りたいとは思わなかった。
荒れ果てた土地。埃臭い街。黄色い風。
貧しい生活は、もうたくさんだ。

写真を再び見た。穴が開くほど何度も見た。
日本にもう一度、行きたい。
周建ツは、日本で過ごしたクリスマスを思い出していた。




















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