澄んだ青に大きな入道雲が浮かぶ朝。
「ガス栓閉めたか?」
「閉めましたよ。」
「裏戸の鍵は……。」
父親の懸念の情に、
「もう。大丈夫ですよ、お父さん。」
玄関の戸締りをしながら母親は微笑んだ。
そして、3人東京国際空港へと――、
るいみ
「いやぁ、でも本当、涙巳ちゃん綺麗になっちゃって。」
飛行機のシートに腰をおろして、一息ついて父親。
ハガキの写真を再び見つめた。
「父さん。なんかオヤジくさいよ、何か。」
みやつ
窓側に腕をかけ、額にあてがって苦笑する浩に、
「よくいうわよ。あんたも楽しみにしてるんでしょ、涙巳ちゃんに会うの。6、7年振りだものね。」
「……。」
「それにしてもお前、わざわざバイクまで持っていかなくていいだろう。」
「向こうでツーリングしたいし。1日や2日の旅行じゃないんだから。」
ふ、と窓の外を見る。
白い雲の中。
前日の早朝、浩はお気に入りの単車をブルーハイウェイラインで苫小牧まで運んでもらいに、東京まで行ってきたのだ。自分は翌日の今日、飛行機で札幌まで約1時間半乗り、苫小牧で待っているKawasaki
GPZ1100を迎えに行く。
「けど、苫小牧から120キロ以上はあるんだろ?」
「わかってる。大丈夫。父さんたちより少し遅れるけど、昼にはつくよ。」
中学から愛用のバイク。
たいてい何処へいくのも一緒だ。
久しぶりに街中ではなく大草原を走ってみたかったのだ。
それに広い北海道、1週間くらい滞在するには、足がないと不便なのも事実。
やがて、札幌に到着した。
「じゃ、後で。」
浩は急いでJR千歳線に乗り込み、苫小牧へ向かった。
北海道か。
電車に揺られ、のどかな風景を眺める。
懐かしいな……。
幼年時代をすごした場所。
町並みは変わってしまってはいるが、懐かしい。
苫小牧から道央自動車道を北へとバイクを走らせた。
どこまでも続くまっすぐな道。
ラベンダー、ポピー、かすみ草、麦畑。
夢に見た景色が一斉におそってきた。
キカラシの鮮やかな黄も、それらと虹をつくる。
雲ひとつない青空。
高いビルのない、まるい地平線。
気持ちいい。
風を切って走る。
滝川インターまできて、農道におりる。
ここはあまり変わってない。
幼い頃のままだ。
――雨龍町。
人口約4千人の小さな町。
空知支庁の代表水田地帯。
ここが浩の生まれたところだ。
石狩川と雨龍川の水の恵みを十二分に受けた町。
有名な観光所こそないが、雪をかぶった山々に囲まれた空気の澄んだ町。
少し細い商店街に入った。
ここも変わってない。
バイクをとめる。
「はいよ。今日はずいぶん買うんだね。」
「お客さんなのよ。」
北海道特有のイントネーションで、八百屋のおじさんはビニル袋を少女に手渡す。陽にすける綺麗なストレートの髪をサイドで一本に結わいて、前にたらしている少女は、にっこり微笑みながらお金を払い、八百屋を後にした。
「……涙巳。」
少女は振り返った。
つぶらな瞳が不思議そうに浩を見る。
「わかんないか。」
そうだよな、と付け加えるように言ってヘルメットを脱ぎ、
「俺だよ。涙巳。浩。」
前髪をかきあげた。
「……みや……ちゃん?」
つぶらな瞳がようようと大きく広がる。
「久しぶり。」
「……本当に……本当にっ?」
涙巳は買い物袋をなげだして、浩にしがみついた。
広くなった胸。
高くなった背。
「おいおい。婚前の娘さんにしては大胆だね。」
冗談ぽく浩は言って、優しく涙巳の細い体をはなした。
「おめでとう。綺麗になったね。」
笑顔を見せる。
「みやちゃんも変わった。男っぽくなった。」
色白の頬を紅く染めて白い息を吐いた。
「18だしな。」
「そっか。18歳なんだね。」
夢に出てきた柔らかな笑顔。
「東京はどう?」
「ん。便利ではあるし、友達もたくさんできたよ。でも、ここは長閑でいいよ。」
息を吸うを肺があらわれるようだ。
「あたしもいきたいな。」
「いつでもいけるよ。結婚してから2人で来ればいいじゃないか。」
「うん……。」
些か戸惑った返事をする。
「……涙巳?」
「ううん、なんでもないよ。」
口元を緩やかに動かす。
また、その笑顔。
浩はハガキが送られてきた時から気にかけていた。
写真に写っていた涙巳の笑顔が、夢の中に出てきた笑顔と同じだったから。浩と別れる時の、寂しさを押し込めたような笑顔と。
そして今、間の前にいる涙巳も……。
「……。」
「このオートバイ、みやちゃんの?すっごくキレイ。」
ごまかすように、涙巳は浩の引いているGPZに、白く細い手で触れた。
磨きのかかったワインレッドに、涙巳の顔が映る。
「……。」
やがて、豊かな水田に囲まれた一軒家が見えた。
幼いころにいた牛たちの姿は見えず、牧場もなんだか荒地と化している様子を怪訝に垣間見、通り過ぎ――、
「……そうだったの。」
昔よりとても低くなった玄関をくぐって土間に足を踏み入れると、深刻な雰囲気が広がっていた。
土間との仕切りの向う――、
「援助するかわりに涙巳を嫁にっ……て。」
母親のその言葉に、涙巳は勢いよく仕切りの戸を開け、
「っ……言わないって言ったのに。言わないって……母さんの嘘つき!!」
頭を振って取り乱した。
「涙巳……。」
「あたしは本当にあの人が好きだから結婚するのっ。好きだからっっ!!」
膝を冷たい畳についた。
髪が揺れた……。
「……涙巳。……どういうこと?おじさん、おばさん。」
その後ろで浩。
自分の両親と涙巳の両親、そして祖母の囲むテーブルを見下ろした。
「浩ちゃん……。」
涙巳の母が悲しそうに浩の名を呼んで、暫く振りの挨拶もなしに――、
「涙巳ごめんね。」
昔から、“自然を大切に、非開発”を掲げてきた雨龍町や近隣の町々。
しかし、急速な過疎化に悩まされ事業がおぼつかなくなると、近隣の町は広大な畑を利用して向日葵の種を蒔き、“ひまわりの里”として観光名所にして、観光客を集め始めた。
大きなホテルも建てられた。
他の町々も、観光地として開発を始めたのだ。
しかし、古くから米作地の雨龍町だけは、そういった開発が支庁から許されず、稲作に専念しなければならなかった。
若者は次々と上京し、残されたのは高齢者。
米の価格が安定しているとはいえ、超過疎、人手不足では家計も荒れる。
そこで、手を差し伸べたのが、地方行政を担当する14支庁をまとめ、北海道全体の行政を担当する、札幌市の北海道庁関係の人間だった。
――涙巳さんをお嫁さんにいただけるのなら、資金援助をしましょう。
涙巳のことを気に入ってくれたらしい、そこの御曹司。
「……。」
だから……あの笑顔。
「私たちは、お断りしようとしたのよ。……でも涙巳は優しい子だから……幼い頃からずっと家の仕事を手伝ってくれて。お金のことを心配して高校も行かないで……一言も涙巳はわがままをいわなかった。今回だって。」
「違うっていってるでしょ!本当に好きなのっ好きなのよっっ!!」
反論を許さない言い方。
しかし、心の悲嘆な叫びが聞こえる。
「みやちゃんには知られたくなかった……。」
涙が落ちるように呟いた。
「東京でがんばっているお前たちには迷惑かけまいと……。」
涙巳の父親が険しい顔つきをする。
「迷惑だなんて、義兄さん……。」
「……父さん。」
浩がゆっくりその場に膝をついた。
「俺たち、北海道で暮らさないか?」
「……みやちゃん。」
涙巳が顔を上げる。
「俺、働いてもいいと思ってるよ。ここで、おじさんたちと一緒に。」
「浩ちゃん。」
「おばあちゃんはここを離れたくないだろう?今更上京したって余計大変だし。」
「……浩。」
祖母が愛しそうに浩を見る。
生まれ育ったこの場所を離れたくないのは、聞かなくともわかる。
それに、環境も辺境も違う神奈川の忙しい町並みに、体はついていけないだろう。
それならばいっそ。
「……涙巳も、結婚することないよ。」
「みや……ちゃんっっ。」
涙巳は浩にしがみつく。
ずっと、辛いのを我慢してきた。
皆と一緒に高校も通いたかった。
ショッピングや遊園地。
そんな娯楽も楽しみたかった。
まだ16歳。
結婚など、したくなかった……。
「そうしよう。」
淡と父親はいった。
「俺たちが手伝ったくらいで、役に立つかどうかわからないが、昔のように皆で暮らそう。いいだろう、お前。」
「もちろんですよ。」
母親もにっこり、笑った。
「……本当に、本当にいいのか?」
涙巳の両親、祖母は嬉し涙を浮かべた。
「二人っきりの兄弟じゃないか。」
「うっ……。」
嗚咽をもらし、涙をすする。
「でも浩ちゃん。大学に行く予定だったんでしょ。」
「気にしないでください。」
「浩。こっちの大学受けなさいな。あんたや涙巳には好きなことをやってもらいたいよぅ。おばあちゃんも一生懸命働くから。」
にっこり、優しい笑みを祖母は浮べた――……。