5 次の日。 じゅみ 俺と樹緑は、部活を休んで久しぶりにK保育園へ行った。 鎌倉市。 御成トンネルをくぐってすぐ左。 年期を感じる門をくぐった。 懐かしさがこみ上げてくる。 K保育園――年齢や発達段階によっていくつものクラスに分かれている。 一番年齢の低いクラスは、20人くらいが生活している。 生活――子供によっては、週に何回とか、月に何回とか親が来てくれることもあるが、殆どの親は会いにこない。 子供たちは、ここで衣食住を共にする。 そして、ここから学校へ通っている。 でも、中3までしか面倒をみてくれないから、卒業後は殆どの子供は働きにでる。 母さんたちは、今でもここで交代で寝泊りしている。 その為、小さい頃から俺たちはここで遊ぶのが常になっていた。 ここで過ごした日々は長かった。 だから、俺たちには、特別な思い入れがある。 いおる 「尉折くん、樹緑ちゃん!」 顔に皺をたくさん寄せた園長先生が出迎えてくれた。 昔と変わらない笑顔。 俺たちは、一礼して、樹緑が菓子折りを手渡した。 園長は、俺たちのことを成長した。と何度も言葉にして懐かしんだ。 ゆうは 母さんや、夕葉おばさんも時間を見計らってその場に来てくれた。 今ではとても小さく見える園庭の遊具を眺めながら、腰下ろす。 目の前に入れたてのお茶が注がれて――、 「何歳の頃だったかもう忘れちゃったけど。」 入れられたお茶に礼をいってから、俺は昔話を思い出した。 「こうやって夕葉おばさんがお茶を入れてたとき、樹緑が俺を追いかけて、俺、夕葉おばさんにぶつかってさ。あぶなく熱湯かぶるとこだったんだよな。」 遠い記憶。 たしか4、5歳だったか。 「そうそう。あの時、本気で尉折にかかっちゃえばよかったのに。って思ったのよ、私。」 「……言ったよ、ソレ。」 「あら、そうだったかしら。」 樹緑はとがった顎を跳ね上げて、おかしそうに、懐かしそうに口にした。 「寸でのとこで、母さんが俺を抱き上げてくれて。あんとき熱湯かぶってたら、今の美形が台無しだったかも。」 「かかってたほうが、よかったかもね。」 俺の言葉に樹緑の毒舌。 俺たちは2人で笑いあった。 「んで、ケンカのワケきかれてさ。もう忘れちゃったな。」 俺は空を仰いだけど、思い出せなかった。 でも。 これだけは覚えてる。 ――女の子は傷つきやすいんだから、尉折がちゃんと樹緑ちゃんのこと守ってあげるのよ。 母さんの言葉。 遠い、遠い記憶の中。 リフレインしていた。 「覚えてる覚えてる。でも、尉折。うそっだー、樹緑ちゃんが傷つきやすいわけないじゃん。っていったのよね。失礼しちゃう。」 樹緑は腕組をして唇を尖らした。 「ね。何で覚えているんだろ。不思議。母さん、樹緑は素直にならなきゃダメよ。って言ってくれたのよね。」 そう。 俺も樹緑も母さんの言葉をちゃんと覚えていた。 覚えていたのに、忘れていたなんて。 やっと母さんの言葉が身にしみている。 樹緑の繊細さ。 あすか あの時、気付いていれば、樹緑を、飛鳥たちを傷つけることなんてしなかったはずなのに。 樹緑もきっと、同じことを考えたに違いない。 懐かしむ顔をした。 俺たちは顔を見合わせてはにかんだ。 お互い、母さんのいうことをきいていれば――、 「?」 俺たちが話に夢中になってたら、母さんたちが俺たちを無言で見ていることに気がついた。 樹緑と首をかしげる。 「どうしたのさ。」 母さんも、夕葉おばさんも、園長先生さえも無言でうつむき、そしてその瞳は潤んでいるようにみえた。 ゆっくり母さんは口を開いた。 ・ ・ ・ 「尉折。その、記憶の中の母さんは……母さんじゃないわ。」 「え?」 夕葉おばさんも、頷いて、樹緑に同じことをいった。 ――女の子は傷つきやすいんだから、尉折がちゃんと樹緑ちゃんのこと守ってあげるのよ。 ――樹緑は素直にならなきゃダメよ。 記憶の中の、母さんの言葉。 「……。」 「そう。寸でのところであなたを抱き上げて、そして、女の子は傷つきやすいのよ。そういってくれたのは……」 あなたの本当のお母様よ。 「……。」 俺は、思わず湯のみをテーブルへおろした。 本当の……母さん。 「樹緑。あなたに、素直にならなきゃダメといってくれたのも。」 「……。」 本当の母親。 ……俺たちは、会っていたのか。 樹緑も目を丸くした。 「幼い頃の記憶は曖昧なことが多いわよね。しかも尉折くんたちの場合、そう解釈するのが普通だったんだわ。」 事情を知っているらしい園長先生も涙ぐんだ。 俺たちは、ただ、口をつぐんだ。 遠い日の記憶。 俺たちの心に鮮明に残っていた。 母さん……。 「私一度も……でも、会っていたのね……」 樹緑がこらえきれず口元に手を当てた。 細い肩が震えた。 そんな俺たちを見て、母さんは――、 「あなたたちに謝らなければならないことがあるの。」 小さな物音に、ドアに顔を向けた。 「……。」 「……母……さん?」 思わず口から出た。 わからない。 直感とも言うべく何か。 俺は、本能的にその人が自分の本当の母親だと、確信した。 今日会えることなんて、もちろん知らなかったのに。 「……尉折。……尉折!!」 温かく懐かしい匂いに、俺は包まれた。 肩で何度も何度も俺の名を呼ぶ、小柄な女性。 おずおずと、俺はそのヒトの肩を抱いた。 震えている。 「18年前の8月19日。あなたは生まれたのよ、尉折。」 落ち着きを取り戻した母さんは、入れられたお茶をすすって、ゆっくりと話しだした。 ・ ・ ・ ・ 「そして、同じ日にあなたも生まれたの、樹緑。私の妹のおなかから。」 樹緑が俺に寄りかかった。 安堵の表情。 俺も笑顔を返す。 俺たちは、双子じゃない。 「妹は体が弱かったの。子供を生むのにもリスクを伴った。でも、樹緑。周りの反対をおしきってでも妹はあなたを生んだのよ。そして、奇跡的に二人とも無事だった。」 母さんが優しいく切ない笑顔を見せた。 その笑顔。 俺の遠い記憶に残っている。 樹緑の母さんは、心臓病だった。 手術には多額の医療費が必要だった。 樹緑の父さんは、既に事故で他界していて、だから樹緑の母さんは自分の体の危険も省みず樹緑を生む決心をしてた。 そんな時、俺の父さんの会社が倒産した。 「誰にも頼れなくて……私と妹はね。ここで育ったの。」 「……。」 あさは 朝葉母さんを見ると、申し訳なさそうに頭を下げた。 朝葉母さんも、夕葉おばさんも、園長先生も、事情を知った上で俺たちを引き取ってくれた。 「ごめんね、嘘をついて。事情を伺って力になりたいと思ったわ。」 はおか 葉丘家の援助を受けた母さんたち。 そのお陰で、樹緑の母さんは手術を受けることができたが、まもなく亡くなった。 母さんは、二人の乳飲み子を守るために、身を粉にして働いた。 たびたび母さんは、俺たちの様子を見に来てくれていたらしい。 「必ず迎えに行こうと思っていた。……でも、ごめんなさい。……物心ついたあなたたちの前に、今更母親だなんて……」 母さんは静かに涙を流した。 痛かった。 胸の奥が締め付けられる。 「尉折……あなたのお父さんは、多額な借金を抱えて、それでも一生懸命働いて……寝る間もなく働いて、働いて……」 そして、死んだ。 俺は、瞳を閉じた。 ――尉折くんたちの親がどういう気持ちだったかなんて、理解できるの?真実もわからないのに、エゴイストだ、なんてそっちのほうがひどいよ! しなほ 紫南帆ちゃんの言葉が重く響いた。 ――子供を想わない親なんていないよ、尉折。 あすか 飛鳥の言葉が、胸に沁みた。 母さんは何度も何度も俺たちに謝った。 母さんのほうがどれだけ辛い思いをしてきたか計り知れないのに。 それなのに、俺は。 恨んでいた。 憎んでいた。 母さんのこと、何一つ知らず。 「母さん、今、幸せ?」 俺の言葉に、母さんは顔を上げた。 何となく、そんな気がした。 会いにきてくれたのは、きっと支えてくれる誰かがいてくれるのだと。 母さんは、柔和な笑顔で頷いた。 そして――、 「尉折たちのことももちろん話してあるのよ。だから、尉折、樹緑……」 母さんの言葉を俺は遮った。 首を横に振って、樹緑の肩を抱く。 「俺、樹緑と結婚する。」 2人で幸せになるよ。 だから、母さんももう、苦しまないでくれ。 「……ありがとう。」 園庭。 風で緑が揺らいでた。 男の子と女の子が甲高い声を上げて、遊んでいる。 昔の俺たちのように。 MEMORY 遠い日の記憶………いつまでも心の中に。 幸せ そして、新しい記憶を――……。 END
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