第一章:один:壱
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曇天に左腕を伸ばす。
掌を上に向けると、羽のような雪がゆっくりと降りてきて、消えた。
温度は感じなかった。
次々と手に乗る、その綿雪のどれもが、重たさも冷たさも感じさせず、ただ、舞い降りてくる。
飛龍 天羽は、じっと、左右非対称の瞳で見つめていた。
雪は、大気中の水蒸気から生成される氷の結晶。
僕は、一体何者なんだろう。
どこから来て、どこへ向かうんだろう。
灰色の空は、海のずっと遠くまで続いていた。
静かだ。天羽の銀色の髪を揺らす風も、ない。
眼下の木々や田畑には、もう薄っすら積もり始めていた。
海まで伸びる左側の農道の反対。小さな森のように高さ、種類様々な木々が植わっている。
その一角が少し、揺れた。
「天羽〜。窓開けっ放し、寒い!シュエちゃん、中に戻してよ〜!」
もう、戸締りしてね。と、母親の飛龍 冥旻は、ダウンコートを羽織りながらキッチンから声を張った。
開いたままの掃き出し窓。飼い猫のシュエがこっちに来た。
天羽の足元に身を摺り寄せて、身軽にベランダの手すりに飛び乗った。
目線が合う。
真っ白で綿毛のようにフワフワしている。小さな顔に天羽と同じ、オッド・アイ。
右瞳が青で、左瞳が黄色だ。
最も、天羽の左瞳は、茶色だ。
ただ、シュエの右瞳の青色は、澄んでいて、天羽のそれとそっくりだった。
シュエ。は、中国語で雪。という意味がある。
雪のように白いから。と、冥旻がつけた。
天羽は、シュエを抱き上げて、2階からの景色を見せてやった。
猫ならこの程度の高さは飛び降りれそうだが、シュエは、外には興味がないのか、いつも屋内とベランダだけで満足している。
今も、舞う雪に瞳孔を開いてはいるが、腕の中で大人しくしていた。
「今日からまたお留守番。」
天羽は、シュエに言って室内に入る間際、ちらりと下に視線をやった。
白のパーカーの上に重ね着したベージュのボアジャケット。左手をポケットに突っ込んで、先程開封したばかりの使い捨てカイロを、さりげなく投げ落とした。
「行くよ〜。」
冥旻が家の鍵を手に取って、軽く振った。
昨年の夏、ショートになった黒髪は、肩まで伸びていて、それ以前の長さに戻りつつある。
天羽がじっと見ていると、冥旻は、どした。と、首を横に傾けた。
カルティエのピアス―――Loveコレクション。ホワイトゴールドにビスモチーフが施されたシンプルなオーバルシェイプ。が、揺れた。
「髪、伸びたね。」
抑揚のない、事実を言っただけの言葉。
冥旻は、自分より10センチ以上も高くなった息子を見上げて、笑った。そうだね。と。
天羽には、心配しなくても大丈夫よ。と、聞こえた。
「雪、積もったら大変だから、早くいこ。」
「……うん。」
二人は、シュエに行ってくるね。と、手を振って玄関を出た。
シュエは毛繕いをしていた。
外付けの階段を降りる。雪の勢いは増していて、足元が滑りやすくなっている程、積もり始めていた。
天羽は、空を見上げた。先程より大粒の雪が、次々と降ってくる。
前を行く、冥旻の白のダウン。一瞬、背景と同化して、それは、天羽の幼少の記憶を呼び起こした。
強烈に視覚に訴えてくる景色。雪原に鮮烈な赤い血飛沫。
叫び声は、悲しみ、怒り、そして、諦め。の感情を含んでいた。
彼らの瞳は、天羽を見ていた。
その、どの瞳にも、憐憫は観えたが、誰一人として手を差し伸べる者は、いなかった。
「天ちゃーん!」
天羽を現実に引き戻したその声は、きらきらとした一筋の光のように、天羽に降り注いだ。
飛龍 空月は、満面の笑みで車から降りて、天羽に手招きしている。
白い息を吐いていた。頬が紅潮している。
「荷物、こっちに置くよ。」
差し出された空月の手。
天羽は、じっと見つめて、そして、ありがと。と、自分の背負っていた荷物を下して空月に渡した。
昔からそうだ。空月は、いつも笑顔だ。
幼い頃、誰かが空月を“空っぽの月”だ。と、揶揄した。
空月は、言った。
―――そうだよ。だから、何でも吸収できる!
空月は、莞爾として笑った。
周りは皆、そっかすごいね。と、賛同し、空月を褒めた。
空月の周りには、いつも人がいた。そして、今も。
「天羽、寒いし、はよ乗り。」
車の中から空月の姉、飛龍 海空が、やはり笑顔で手招きした。
冥旻も助手席に収まっている。
天羽は、後部座席のドアを支えている流水 斐勢と挨拶を交わし、車に乗り込んだ。
斐勢は、車の前から回り込んで、運転席に座る。
5人乗りのセダンは定員いっぱいだが、空月が小柄なおかげで、窮屈ではなかった。
「斐勢、ありがとね。海空も空月も。先、行っててくれて良かったのに。」
冥旻は、斐勢に礼を言って、後ろを振り向いて、海空と空月に申し訳なさそうにした。
今朝。ここ、神奈川県鎌倉駅から程近い、自宅より南に数キロの飛龍家本家で毎年恒例の年始祝いを済ませた。
例年、年末から本家に泊まり、年始の午後にはそのまま冥旻の実家―――大阪府。へ向かうのだが、今年は、去年飼い始めたシュエの世話と所用で一旦自宅に戻った。
「大名行列みたいでいややもん。融通利かへんしな。」
海空は、そういって、大阪までの道中のサービスエリアを数か所。斐勢に伝えて、絶対寄って。と、言った。
「海空ちゃん、それスイーツ巡りでしょ。大阪に着かないよ。」
天羽の言葉に、海空は、大丈夫。全部持ち帰りにするから。と、親指を立てた。
天羽より4つ上の海空は、高2。甘いものに目がないスイーツ女子だ。
しかも、この細い体の何処に入るのか。というほど食べる。底なし。だった。
海空のいう、“融通”。とは、つまりそういうことだ。
「まあ、確かに大名行列は私も昔から嫌だった。いいね。のった。といっても海空に合わせてたら絶対デブるわ。」
若いっていいな。と、冥旻は、いう。
そういう冥旻も40代とは思えない体つきと、容姿をしている。
幼少から空手を始め、色々な武道をかじった強者の母だ。
そして、大阪の実家は、日本一大きなヤクザ組織、飛龍組二代目、飛龍 颯昊が家長にして天羽の祖父でもある男の家だった。
冥旻の兄、つまり天羽の伯父。の飛龍 海昊が今は三代目を継いでいる。
海昊は、大阪ではなく、学生時代に過ごしたここ、神奈川に拠点を置いたため、先の飛龍家本家。は、天羽の自宅から数キロ。由比ヶ浜海岸に近い所にあり、今ではそこが飛龍組本部。とされていた。
そして、海空と空月は、海昊の子供。つまり、天羽のイトコだ。
「いいね!何か旅行みたいで楽しいよね!」
空月は天羽に同意を求めた。
天羽の無反応にも全く気にせず、雪が積もらないといいね。と、車窓を見つめる。
正月に積もることはこのあたりではないが、道中はわからない。
確か、岐阜や滋賀のあたりは良くニュースで通行止めなど聞く気がする。
雲行きが怪しいのなら、ゆっくりするのは好ましくないが、海空は先に挙げたSAに寄らない。という選択肢はないだろう。
海昊たち―――飛龍家本家の面々は、数時間前既に新幹線で大阪へ出発していた。
自分たちが多少遅くなっても問題はない。
それに、海空が毛嫌いした“融通の利かない大名行列”。言い得て妙だ。
神奈川から大阪まで50人弱ものヤクザの移動。
その中に混ざるのは、天羽もあまり好きではなかった。
「小一時間で最初の目的地、足柄SAにつきますさかいに。」
斐勢は、バックミラー越しに言った。
斐勢は大阪の飛龍家の近くに居を構える、飛龍組系第一次団体、流水組の総統だが、海昊や冥旻が幼少の頃からの側近だ。
年は60を超えるが、若々しく、穏やかな表情の中に風格漂う人格者。
常に飛龍組のことを考えて行動する忠誠心の強い男だ。
毎年年始に神奈川に趣き、夕方大阪に帰る斐勢は、今回天羽たちの運転手を買って出てくれたらしいが、本来ならそんな立場の人間ではない。
天羽は、降り続く雪で視界が悪いが、サイドミラーに映る数台の車を確認していた。
着かず離れずついてくる。
昨年くらいから自身の周りが騒がしくなってきていることを、天羽は察していた。
大人たちは心配かけぬ為にか、必要最低限のことしか教えてくれない。
例えば、護衛。姿を晒すことがないため、誰なのか、何人なのか不明だが。
常に見張られている。味方だと解ってはいるが、煩わしいときもある。
それに。
味方だけとは限らない。
「天羽。何か要る?」
海空の最初の目的地、東名高速道路下り、足柄サービスエリア。
温泉、足湯もある、国内有数の規模を誇るSA。
富士山を臨む絶好のロケーションだが今日は難しいだろう。
天羽は海空に水だけ頼んで、その場を動こうとはしなかった。
冥旻は、海空と同行し、空月は、きっと持てないから。と、天羽の水を買いに車外へでた。
斐勢だけ残った。
「ねぇ。今日うちの周辺に護衛っていた?」
天羽の射抜くようなオッド・アイ。
斐勢はバックミラー越しに見て、そして後ろに向き直り、大丈夫ですよ。と、口元を緩めた。
居る。から大丈夫なのか。居なくても問題ない。から大丈夫なのか。
いずれにしても母同様、心配するな。ということだろう。と、天羽は思った。
ただ、後者なら、少し刺激をしてしまったかもしれない。
天羽は相変わらず降り続く雪で、車内との温度差が大きくなったために曇った窓ガラスを手で拭いた。
丁度、冥旻たち三人が、こちらに向かってくる姿が観えた。
空月の予想通り、冥旻と海空は両手に買い物袋を提げている。
海空はその上、両手にソフトクリームらしきものを持っていた。
車の扉が開かれると、一気に甘い匂いが舞い込んできた。
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