Affection
1/2/3/4/5/6//あとがき

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 細く白い線が、一瞬にして赤の太い線に変わる。
 細い手首が、真っ赤に染まった。
                       ヒ ト
 私が死んだら、誰か悲しんでくれる人間、いるのかな……。

 真っ暗な広い部屋で独り、恐ろしいことを考えた。
 右手には、何処でも売っていそうな、カッターナイフ。

 あさわ    めみ                                  ・  ・  ・  ・  ・
 浅我 萌の左手首には、何本ものためらい傷があった。
 手首を預けている学習机の上には、明日のテスト用の教科書とノート。

  「!!」

 突然の、甲高い電子音に、肩を怒らせる。
 電話が鳴ったのだと判るのに、数秒要した。
 萌は、凝固した血液をそのままに、子機を手にした。

  「萌かぁ?」
           たつし
 ひとつ上の兄、闥士の声だ。

  「10万。場所はわかってんだろ。」

  「……もう、ムリだよ。バレちゃうよ。」

  「るせーよ。黙ってもってこい。じゃあな。」

 無造作に電話は切られた。
 萌は、溜息をついて洗面所に向かい、手首の血液を洗い流した後、母親の寝室に重たい脚を運んだ。
 剥製の虎の顔のついた、カーペット。
 壁にかけられた鹿や熊の剥製。
 あざ笑うかのように見つめている。

 東京の大手金融会社の社長。
 それが、萌の母親。
 夫とは死別し、今は、父親の弟の子供――つまりイトコと再婚している。

 萌は、クローゼットを開けた。
 高価な服が顔を揃えている。
 手探りで小物入れを漁る。

  「……。」

 目当てのものはすぐ見つかったのだが、萌は一枚のハガキに目を奪われた。
 1989年の年賀状。
 差出人は、流蓍 あさざ。と綺麗な字で書かれていた。
       あさわ    しなだ
 宛名は、浅我 氏灘。
  ・  ・
 今の父の名だ。

 父は、現在県立S高校の英語教師をしている。
 今年は1994年なので、5年も前の年賀状ということになる。
 些か黄ばんでいるそれ自体も、古いことを物語っている。

――明けましておめでとうございます。
   昨年は、大変お世話になりました。

   私たち、ようやく志望校が決まり、目標に向けて頑張っています。
   先生もお体にお気をつけて、お元気で。

 何の、変哲もない、生徒からの年賀状。
 しかし、後生大事にしていたとしか思えない。

 5年前というと、丁度、母が父と再婚した年。
 その頃、父は、茅ヶ崎市にあるC中学校で働いていた。
 萌が通っていた学校でもある。

 萌は、神奈川県の茅ヶ崎市で幼少時代を過ごしてきたが、母親の事業の拡大とともに、渋谷の高級マンションへの引越しを余儀なくされた。
 現在高校2年。
 鎌倉市にある私立K女子高等学校に通っている。
 毎日専用の運転手が、車で送り、迎えに来てくれる。

  「……。」

 萌は、その年賀状をまじまじと見て、何故ここ、母親の寝室にあるのか。と、勘ぐって、キャッシュカードと共にポケットに忍ばせた。
 クレジットカードもってるくせに。と、兄を睨むように、呟いて外へ出た。

 真っ白な息は、灰色の空に吸い込まれる。
 あでやかなライトで照らされている町並み。
 渋谷、センター街。
                クレイジーキッズ
 闥士が仕切るチーム、Crazy Kidsのヤサがある。
 途中で現金を引き出し、萌は――、
              ぐし      へんり
  「良い考えじゃん。虞刺と遍詈か。あいつらは操りやすいしな。」

 嘲笑する、闥士の声。

 また、何か悪いことしようとしてる。

 萌は、内心で呟いた。
 何年か前、Crazy Kidsとモメ事を起こし、闥士は母親の権力で、Crazy Kidsを全滅させ、自分がTOPの座についた。
 その他にも、母親の権力を逆手に自由奔放に生きてきた闥士。

 そんな兄を、萌は少なからずうらやましいと思っていた。
 萌は、兄とは対照に世間から見れば、マジメな部類に入る。
 学校の成績は、学年で10本の指に入る。
 先生の信頼も厚く、母親の自慢の娘といった感じ。
 だが、萌は、そんな自分をとても嫌っていた。

  「置けよ。」

 古びたドアを開けると、闥士は前置きもなしに、高飛車に指示をする。
 尖った顎をしゃくる。
 長く左右に伸びた黒髪のストレート。
 赤のペーズリーのバンダナ。
 レザーの上下。
 野性的な瞳。
 革のソファーの真ん中に大きな態度で腰を下ろしていた。
                      マブ
  「へぇ。闥士さんの妹っすかぁ?美人ですねぇ。」

 にやついた男たちが、萌を上から下まで眺め見た。

  「どこが。こんなブタ。欲しいならやんよ。」

 吐き捨てるように言う。
 男たちは、一様にいやらしい瞳を突きつけた。
 男たちは、萌の髪に触れたり、身体に触れたりする。
 その様を、闥士は全く気にせずに、札が10枚あるか数え――、

  「前金。虞刺たちがネンショー出たってまいてこい。」

 闥士の声に、男たちが一斉に頷いた。

  「まだ、前奏だからな。レクイエムは楽しもうぜ。」

 端整な口元を緩めた。

  「……私……帰るね。」

  「まだいたのかよ。さっさと消えろ。」

 萌の小声に、闥士は冷たく言い放った。


 萌は、翻して駆け出した。
 兄とはずっとこんな状態だ。

 何で、人間って生きているの。

 灰色の空を振り仰いで、萌は思う。
 私は、生きている価値なんてない。
 毎日毎日、同じコトの繰り返し。
 楽しいことなんて、一つもない。
 何も、ない……。


 渋谷の街は、笑いに包まれているというのに、萌を包んでいるのは、虚無。
 あの人たちは、何が楽しくて笑ってるんだろう。
 髪を真っ赤に染め、下着が見えそう程の短いスカート。
 白い頬に真っ赤なルージュ。
 世間でコギャルとよばれる女たち。

 うらやましい。

 萌は、心から思う。
 成績が悪くても、世間からどういわれても、楽しいと思えるのが、うらやましい。
                                       ・  ・  ・  ・ ・
 成績が良くても、世間に認められていても、つまらないなんて、つまらない。


 ゆっくり歩みを進めながら、萌は中学校時代を思い出した。
 萌の心には、その頃も虚無が住んでいた。
 マジメで模範的生徒。
 校則違反なんて、もってのほか。
 しかし、つまらない。
 楽しくなかった。

 反発を夢見たときもあった。
 でも、思い切ったことなどできない。
                                 あおい  しぐれ
 中学1年生のときからの友人で、今でもクラスメートの滄 時雨は、萌とは全く逆の性格だった。
 物怖じしない、先生にも言いたいことをいう。
 学校もサボる。
 少しは影響されて、自由になりたい。
 萌は、見えない何かに束縛されているかのように、思っていた。

 恋愛に関しても、自分で予防線をはって、どうせ私なんか……と、いつも諦めていた。
                  ・  ・  ・  ・
 本当は、自由の塊のようなあのヒトに、思いを寄せていたのに。

  「……。」

 萌は、無造作にコートのポケットに手を入れた。
      なしき
  「……流蓍……あさざ。」

 呟く。                     なしき    たきぎ
 萌が思いを寄せているあのヒトの名は、流蓍 薪。
 校則違反の、脱色した髪。制服。
 誰に対しても、いいたいことを言う。
 学校をサボるのも悪びれた様子さえ見せない。
 堂々と、憮然とした態度。

 そんな薪は、萌の目に、自由。と映っていた。
 しかし、心の内を伝えることはなかった。
 そのくせ、時雨が薪のことを好きらしいと悟ったとき、自分の気持ちを、時雨に打ち明けた。

 嫌な性格。
 萌は、自分で自分に呟いた。
 時雨は、自分の気持ちは言わない。
 萌に気づかれていることも知らない。

 うわべだけの友人。
 萌は、時雨を始め、高校の友人たちをそんな風に思っていた。
 自分の本当の気持ちなんて、わからない。
 わかるわけがない。

  「……どこ、いってたんだ。」

 自宅のリビング。
 父、氏灘の姿。

  「ごめんなさい。……お兄ちゃんのところに……」

 素直に謝罪をする。 
 親に反発したこともない。

  「……お父さん。」

  「ん?」

 何でもないです。と、首を振って自室に戻った。
 おやすみなさい。と言い残して。

 母親は、まだ帰宅しない。
 そして、兄も。
 萌は、好きでもない勉強をするために、机に向かった――……。


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