
| 2 1994年、春。 ようやく暖かくなってきた風が、季節が春に移り変わったことを主張している。 肌に触れる心地よい潮風。 幼い頃からの記憶が、無条件に春を感じさせる。 そう み し な ほ 蒼海 紫南帆は愛犬、黒ラブラドールレトリバーの「アルセーヌ」とピンク色に染まった街道を歩く。 漆黒の髪が、腰まで真っ直ぐ伸びていて、時折潮風に弄ばれる。 桜の花びらがそうであるように。 「綺麗だなぁ。」 あすか きさし 大きく伸びをして、桜並木を振り仰ぐ、飛鳥 葵矩。 何度も通ったこの街道で、改めて口にした。 日に焼けた小麦色の手には、使い込まれたサッカーボール。 「ね、今年も見事に満開。」 紫南帆は隣の葵矩と、ピンク色の街道を交互に見た。 自然と笑みが漏れる。 ゆっくりと時が流れている感覚に陥る。 思わず目を閉じて、浸ってしまいたくなる。 「何、これ。」 そんな二人の感情は、あっという間に裏切られ、現実に引き戻された。 紫南帆は、郵便受けの中に奇妙な手紙を発見した。 一見して、普通の手紙ではないと悟る。 手紙を取り出して、ひっくり返してみる。 差出人はおろか、宛名も書いていない、真っ白な封筒。 封を開けてみる。 「げ。」 手紙にはパソコンで――、 「シナホ サマ 5X2-10VENUSX=-5VENUS2 X=MERCURY ==HEART 」 と、書いてある。 何のことだか、二人には理解不能だった。 ただの手紙ではないということ以外は。 二人は顔を見合わせる。 アルセーヌも、二人の様子を不思議がっているのか、じっと手紙に注意を注いだ。 「あら、お帰り。」 「お帰り〜。」 そう み り な ほ 小柄で童顔な顔立ちの女性、蒼海 璃南帆は、柔らかそうに肩でゆるやかにカーブを描いている髪をゴムでまとめながら、背中越しで娘の帰りを迎えた。 その隣でヤカンをコンロにかける、ショートヘアの女性。 あすか きよの 飛鳥 聖乃。 みたか 「ただいま。あ、紊駕ちゃんおこしてきますね。」 「いつも悪いわね。」 新聞を開いた手をとめて、紫南帆に向き直る女性。 きさらぎ みざぎ 如樹 美鷺。 長い髪を桜色のバレッタで一つに留めている。 紫南帆は、中二階へと続く階段を上がり、北東の部屋へ向かう。 軽くノックをしてノブを回した。 「紊駕ちゃん。朝だよ。」 モノトーンでまとまっている部屋。 カーテンを開ける。 東窓なので、暖かい光が差し込んでくる。 「今日は始業式だけだけど、さぼらないように、ね。」 「ん。」 きさらぎ みたか 紫南帆の言葉に殊勝に返事をする、如樹 紊駕。 うつ伏せの状態で枕を握り締めている。 思わず、微笑む。 「紊駕、起きた?」 キッチンに戻ると、葵矩はダイニングテーブルに着いて、先ほど見つけた手紙とにらめっこをしていた。 癖のある、サッカー焼けした前髪を時折かきあげて、渋い顔をする。 いつもの爽やかで甘い笑顔が、曇っている。 「うん。」 紫南帆、葵矩、そして紊駕。 三人は幼馴染。 ただ、一風変わった、幼馴染だ。 紫南帆の母、璃南帆、葵矩の母、聖乃、そして紊駕の母、美鷺。 そうみ しき あすか いざし きさらぎ ひだか そして、それぞれの相方である蒼海 織、飛鳥 矣矩、如樹 淹駕は、学生時代からの友人で、結婚後も変わらず、家族ぐるみで付き合っていた。 二年前、元々隣り合っていた三軒を一軒に建て替えようという、母親たちの常識はずれな考えの下、三家族が同居するという今の状況となったというわけだ。 以来、紫南帆たち三人は生活を共にしている。 プライベートは確保される造りになっているし、家事も分担できる。 なかなかどうして住み心地良い。 「あ、おはよう、紊駕。」 「オッス。」 洗面所に向かう紊駕に葵矩。 黒のラフなズボン。 脚が長いと分かる。 少し寝癖がついているが、赤く、ストレートな前髪から覗く、切れ長のシャープな瞳は蒼い。 クールだが、温かみがある瞳だ。 「見てこれ。」 葵矩はキッチンに戻ってきた紊駕の前に例の手紙を差し出した。 何も言わず、紊駕はそれを受け取った。 「今朝、ポストに入ってたの。」 「シナホ サマ 5X2-10VENUSX=-5VENUS2 X=MERCURY ==HEART 」 「ね、変でしょ。しかも、シナホ サマ、って気味悪い。」 「紫南帆、マトにかかったか。」 紊駕が淡と声を発する。 「どーゆう意味よ、それ。」 「紫南帆が狙われてて、だれかからの殺人予告とか?」 そんなの、ゆるさない、と葵矩は拳を握り締める。 「何、どうしたの?」 家事を終えた聖乃が興味津々に口を挟んだ。 璃南帆も続く。 「シナホ サマ 5X2-10VENUSX=-5VENUS2 X=MERCURY ==HEART 」 「何なの、これ。」 二人は当然ハテナ顔で、首を傾げた。 紫南帆は今朝、郵便受けに入っていたことを説明して――、 「V・E・N・U・S・X、か。VENUS、X。ヴィーナス、エックス?」 もう一度、文面を確認して、つぶやいた。 「ヴィーナスって女神のこと?」 「金星って意味もある。」 葵矩の言葉に、さらり、と紊駕。 「女神、金星・・・。だから、何?って感じだよね。」 「なんか、おもしろそうね。」 聖乃と璃南帆はのんきに言う。 「それにしても、これ、方程式みたいだよな。」 VENUSをとってみると、「5X2-10X=-52」 方程式のようである。 「これを解いてみると、5X2-10x=25になって、X2-2X-5=0?……。」 「わからなくなっただろ。」 紫南帆の動向に、すかさず、見透かすように紊駕が横槍をいれた。 「はい。」 紫南帆が素直にうなづくのに――、 「答え、X=1±2i。」 紊駕はすばやく計算して答えをはじき出した。 「すごーい、紊駕くん。頭の中、どうなってんの?」 「っていうか、アイ、って何?」 聖乃と璃南帆が感激して声を上げたのに対し、 「だから何、って感じですけどね。」 と、紊駕は一笑に付して、その答えが何の意味もなさないと判断。 「シナホ サマ 5X2-10VENUSX=-5VENUS2 X=MERCURY ==HEART 」 「うーん。MERCURYは、水星のこと、なのかな。」 女神、金星、水星……。 方程式。 謎は深まるばかりである。 「紫南帆、あんま気にしないほうがいいよ。だたのイタズラかもよ。」 葵矩は紫南帆の頭を優しく叩いた。 「う、ん……。」 うなづいては見るが、紫南帆は何だか胸騒ぎがしてならなかった。 今日から新学期という、新たな気持ちが、何かの事件のプロローグではないかという一抹の不安に変わりつつあった――……。 >>次へ <物語のTOPへ> |