Finale
Finale
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            / / 8 / 9 / あとがき

                     4

      きさらぎ
  「……如樹先輩。」
              とゆう
 教室の前の廊下で、都邑は頭を下げて、おはようございます。と挨拶をして、
   かすり
  「飛白、休んでます。」
                                   みたか
 高く一本に結わいた黒髪を手櫛で梳いて、上目遣いで紊駕を見上げた。

  「何か、あったんですか?」

 ――何を、お話していたんですか?

 細い肩を震わせて、切ない瞳をしていた。
 小さな両拳をおなかの辺りで結んで、嫉妬心をおさえていた。
 小さな唇をかみ締めて、涙をこらえていた。

 ――先輩はっ……先輩はっ……

  「……昨日から様子、変だったから。……あの……」

 踵を返した紊駕の背中に――、

  「飛白の電話番号教えましょうか?」

  「いいよ。ありがと。」

 紊駕は後ろ手を振った。

  「……如樹先輩っ。」

 目の前で、あきらかに憎しみのこもった声が発せられた。
 わかつ
 和葛だ。
 強かに紊駕を睨見上げている。

 ――先輩は、如樹先輩は、何かしてあげましたか?舞河のために!!

 ――何もしてない!それどころか悲しませるばかりだ!!

  「……。」

 紊駕は、その目を振り切った。
 そして、大船へ向かってZXRを走らせた。

 立派な門構え。
 云百坪ある敷地。
 紊駕はインターフォンを押した。
 重厚な門扉が厳かに開いた。

  「紊駕くん。」

  「どうも。朝にすみません。」

 紊駕は出てきた飛白の母親に一礼した。
 華奢な体の女性は、微笑む。

  「わざわざ飛白に?」

 中へ促す。

  「あのコったら朝食もとらないで、ずっと部屋にこもってるの。」

  「……。」

 こんな時間に訪れた紊駕に何も言わず、飛白の部屋まで案内してくれる。
 高級料亭のような佇まいの和風の家。

  「あのコったらね。毎日毎日紊駕くんの話ばかりするのよ。」

 母親は柔らかく笑った。

  「内気で大人しくて、普段は無口なのに。紊駕くんの話は本当、嬉しそうに話すのよ。」

 紊駕は無言のまま、母親について歩く。
 長く、広い廊下。

  「うちの人がやきもちやいちゃうくらい。ほら、うちの人って過保護な所があるから。でも、紊駕くんのことはとっても好きみたい。」

 母親は饒舌で、しかし、とても優しい響きのある声だ。

  「お父さんたら紊駕くんになら飛白を嫁にやってもいい。なんていうのよ。ごめんなさいね。」

 紊駕に笑いかけ――、

  「飛白。紊駕くんがわざわざ来てくれたのよ。」

 部屋のドアをノック。
 応答なし。

  「寝てるのかしら。」

 首を横に振ってもう一度ノックをするが、やはり返事はない。

  「……また、伺います。」

 夕方に伺ってもいいかと承諾を得て、紊駕は頭を下げた。
 申し訳なさそうに謝る母親に背を見送られ、ZXRを走らせる。

 学校にはいかず、家に戻った。
 静寂した家。
 母親たちは出かけたようだった。
 おそらく買い物か。
       し な ほ
 紊駕は、紫南帆の部屋のドアを軽くノックした。
 返事はない。
 ゆっくり静かに開けた。

 紫南帆は今日、大事をとって学校を休んでいた。

  「……。」

 きちんと整頓された部屋のベッドで、小さな寝息を立てる紫南帆。

 ――ムリに決まってるじゃない。

 ――付き合えるわけないじゃない!そんなの、わかってるじゃない!

 紊駕はベッドの横に椅子を置いて、紫南帆の額の上のタオルを取り替えた。
 そして、腰を下ろす。

 ――もしかして……あんたの想ってるコ……

 ベッドの横の低い棚に左肘をかけ、額を覆った。

  「……。」

 棚の上。
 瀬戸物の鉢に植わっているミニカトレア。
 おととしの6月12日。
 紫南帆の誕生日に紊駕がプレゼントしたものだ。
 今でも大切に育てている。
 燃えるような赤にオレンジを溶かし込んだような花の色。
 今年も咲かせてくれるだろう。

 とても静かな空間。
 紫南帆の寝息だけが優しく響く。
 その安らかな寝顔。
 天井を真っ直ぐ上へ仰いだ小さな顔。
 頬は熱のせいか少し赤く、小さめの口は閉じている。
 息とともに布団の胸あたりが上下する。
 
 紊駕は、溜息にも似た息を吐いた。
 長い前髪をかきあげ、静かに立ち上がろうとして――、

  「……紊駕、ちゃん?」

 紫南帆が目を覚ましたようで、額のタオルを押さえて、上半身を少しおこした。

  「悪い……起こしたか。」

  「ううん。もうそんな時間なの?」

 紊駕が家にいるのを、もう夕方だと思ったらしく――、

  「ばかっ起きっ……」

 勢い良くベッドから起き上がり紊駕の心配もよそに、

  「あっ。」

 体勢を崩して、紊駕に倒れこんだ。
 
  「勢い良く起きる奴がいるか。あほ。」

 紊駕は紫南帆を支えて、優しく叱る。
 紫南帆は謝って、紊駕の腕をかりて体勢を整えた。

  「……ありがと。」

  「まだ午前中だ。ゆっくり寝てろ。」

  「……ん。でも、大丈夫。」

 ベッドに腰掛けた状態で紫南帆。
 スリッパを履こうとしている。

  「寝てろ。」

  「本当、大丈夫。」

  「だめだ。」

 紊駕の静止も聞かず、立ち上がり、ドアに向かう紫南帆の腕をつかむ。

  「きゃっ。」

  「大丈夫か?悪い。」

 そんなに強くひっぱったつもりはなかったのだが、紫南帆はよろけて、紊駕に寄りかかった。

  「ううん。ありがと。」

  「……。」

 体調が悪くて、余力がないのか、紫南帆は、紊駕に抱かれた格好で微動だにしない。
 紊駕も無言で紫南帆を抱いていた。

  「ごめんね。」

 紊駕の胸でうずめた顔。
 小さく呟いた。

  「もう少し、このままでいさせて。」

  「……。」

 紊駕は紫南帆の綺麗な黒髪を撫でて、優しく背中を抱いた。
 ゆっくり瞳を閉じた。
 静かな空間。
 邪魔をするものは、何も、ない。

 柔らかい紫南帆の体。
 伝わる、体温。
 紫南帆も紊駕の背中に手を伸ばす。

  「……。」

  「……。」

 しばらくして、ゆっくりと紫南帆が紊駕とキョリをとりたがったので、紊駕が抱擁していた腕を緩めた。

  「ありがとう。……ごめんね。」

 紫南帆はかすかに微笑んで、もう少し、寝るね。と、ベッドに戻った。
 紊駕は紫南帆を寝かせ、布団を整えた。
                    ひだか
 そして、静かに部屋を後にし、淹駕の書斎へと足を運ばせた。

  「……。」

 書斎。
 缶コーヒーのレポートをまとめるために、自由に使っていいと言われた。
 必要書類を集め、机に並べる。
 紊駕は溜息をついた。
 防音ガラスからは明るい光が差し込んだ。
 緑が風で揺らいでいる。

 再び溜息。
 髪をかき回し、背中を反らす。
 レポートが進まない。

 もう一度、溜息。
 両手を見つめた。
 紫南帆を抱いた、手。

 ――もう少し、このままでいさせて。

 こんなことは初めてだ。
 あきらかに動揺している。
 沈黙だけがそこに存在する空間。

  「ただいまぁー!」

  「紫南帆生きてる――?」

 突然の騒音。
 母親たちだ。
 買い物袋がテーブルに置かれる音。
 スリッパが奏でる乾いた音。
 書斎を密室にしていなかったので、かなりの騒音だった。

  「少しは静かにしてやれよ。」

  「え……紊駕くん。」
 り な ほ      きよの
 璃南帆と聖乃が驚いた表情をして、

  「何サボってんのよ。」
 みさぎ
 美鷺がキッチンから顔を覗かせた。

  「あー、紫南帆ちゃんが心配で授業なんか受けてられなかったか。へー。」

  「うるせーっつってんだよ。」

 半ばからかうようにいった母親の言葉に、紊駕は冗談を交えない低い声ではき捨てた。

  「……何苛立ってんのよ。」

 その言葉に、美鷺は腕をくんで、息子を真っ直ぐみた。
 
  「……。」

 紊駕は母親のその目を振り切って――、

  「何?どうしたの。」

 聖乃と璃南帆は、洗面所に足早に向かった、平素らしからなぬ紊駕の背中を見る。

  「紫南帆ちゃんまだ寝てるから、うるさいっていったんでしょ。やっぱりまだ調子悪かったのね。だったらそういえば一人残ったのに。ねぇ。」

 半ばはぐらかすように美鷺。

  「……そうね。ちょっとはしゃぎすぎたかな。まったく、紫南帆ちゃんってば、気遣うんだから。」

  「紫南帆は大丈夫でしょ。でも、紊駕くん。何か変じゃなかった?」

 璃南帆はあっさりと自分の娘のことをいい、美鷺に振った。
 美鷺は、いつも変なのよ、あいつは。気にしないで。と一笑に付した。


 ――何苛立ってんのよ。

 紊駕は洗面所で顔に水をかけた。
 シャープな輪郭をなぞるように水が流れ、尖った顎から水滴となって落ちた。

 苛立ってる?
 ……誰に?
 ……何に?

 濡れた手で、前髪を後ろへ流した。
 数本が束となって、額におちてくる。
 赤い、髪。
 鏡に映る、自分の顔。
 顔、顔、顔……。

  「あ、紊駕くん!」

 璃南帆の声が背後でしたが、振り返らずに、玄関を出た。
 おもむろにZXRのエンジンを吹かす。
 家を出た。

 ――何苛立ってんのよ。

 苛立ってる。
 美鷺の言葉を脳裏で復唱する。
 それを振り切るかのように、ZXRのグリップを回した。
 スピードが上がる。
 やがて、青海原が見えた。
 
 江ノ島。
 紊駕はZXRを停めた。
 防波堤に腰掛ける。
 
 波の音。
 きっちりと定期的に打ち寄せる。
 風の音。
 優しくささやく。

 蒼い海。
 太陽。
 降り注ぐ。
 痛いほど、紊駕を突き刺す。
 突き刺す――……。


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