
5 みたか 「……紊駕くん。」 ソプラノヴォイスにはっとして顔を上げる。 防波堤で腰を下ろしたまま、いつのまにかオレンジ色に変わった太陽を背負った女性を見た。 り な ほ 「……璃南帆さん。」 細い肩にかかったショールをかけなおして、隣に腰を据えた。 「夕方の海は、まだ寒いわね。」 璃南帆は、瞳を閉じて波音をきいた。 陶酔するような表情で、心地よい音ね。と、呟く。 4月下旬の湘南海岸。 肌を触れる海風は、まだ冷たい。 数えるほどしかいない人。 静かだ。 「……おなか、すかない?」 璃南帆が瞳を開いて、紊駕を見た。 そして、立ち上がる。 ・ ・ ・ ・ 「お姉さんと軽食でもどう?」 イタズラな笑みを浮かべて紊駕の腕を取って、立ち上がらせる。 紊駕はなすがままに、立ち上がった。 紊駕より、30センチ以上も低く、小柄で童顔な璃南帆は、とても40代には見えない。 まだ、学生でも通るくらいだ。 黒の髪は、肩でゆるやかにカーブしていて、濃い化粧をしなくとも、白い肌はきめ細かい。 し な ほ 二重の瞳、小さな唇は紫南帆に遺伝したらしい。 輪郭は、紫南帆より丸めで、柔らかい女性像。 2人、近くのファーストフード店に入った。 「……紊駕くんは……」 ウインナ・コーヒーを一口飲んで、璃南帆は口を開いた。 ひだか 「淹駕くんに似てしまったのね。」 「……。」 コーヒーカップが受け皿に触れる音。 数秒、璃南帆は紊駕を見つめる。 淹駕を見るような瞳。 紊駕は、その瞳に、紫南帆を見た……。 「紫南帆は、私に似てる?」 一瞬、どきりとした。 心を見透かされたような――、 「……。」 紊駕は、否定も肯定もしない。 いや。 できない。 きさし いざし 父親、淹駕と紫南帆の母親の璃南帆、そして葵矩の父親の矣矩が幼馴染だったのは、知っている。 しき 以前、紫南帆の父親、織から聞いたことがある。 詳細は、湘南ラプソディーを。 「できれば、似ないで欲しいな。」 とても、意味深な言葉を、璃南帆は独り言のように言って、カップに口付けた。 沈黙。 璃南帆が、何をいいたいのか。 璃南帆の言葉が、何を意味するのか……。 ――紊駕くんは、淹駕くんに似てしまったのね。 ――紫南帆は、私に似てる? ――できれば、似ないで欲しいな。 紊駕は、璃南帆と別れて、鎌倉を抜けた。 背中の夕日。 痛く、ない。 それどころか、辛い。 辛い……。 「紊駕くん。何度もごめんなさいね。」 「おじゃまします。」 かすり 飛白の家。 母親が何度もドアをノックするが、やはり返事はない。 「飛白、起きているでしょ。飛白!」 少し声を荒げた母親を、紊駕静かに制して、 「日を改めます。」 深く頭を下げた。 そして、静かに振り返った時――、 「……。」 飛白の部屋のドアが開いて、背中に柔らかく温かい感触。 飛白が紊駕の背中にしがみついたのだ。 「ごめんなさい。……ごめんなさいっ。」 母親は、紊駕に軽く頭を下げて、その場を退出した。 「先輩っ……先輩っ……」 紊駕は、飛白に向き直って、部屋におじゃました。 ピンク系の淡い色で統一された、いかにも女のコ、の部屋。 レースのカーテン。 カントリー風のベッドや机。 お姫様の世界だ。 「あたし……あたし……」 カーペットの上に、腰をおろしてうつむいたまま――、 きさらぎ 「如樹先輩といると、……胸が苦しい。息が……できないっ……どきどきして、はらはらして……あたし。……死んじゃいそう。」 飛白が顔を上げて、そして紊駕の胸に顔をうずめた。 小さくて、壊れそうに細くて、抱きしめたら折れてしまいそうな体。 紊駕は優しく腕を回した。 「飛白……悪かった。」 「……先、輩?」 飛白が、涙で潤んだ瞳で紊駕を見上げた。 ――付き合えるわけないじゃない! ――もう少し、このままでいさせて。 ――何苛立ってんのよ。 ――紊駕くんは、淹駕くんに似てしまったのね。 紊駕の脳裏。 みさぎ あさざ、紫南帆、美鷺、そして璃南帆の言葉が駆け巡る。 「俺は、お前を傷つけることしかできない。」 「……。」 静寂。 飛白が、大きな瞳をさらに大きくした。 紊駕は、その精悍な顔を、蒼い瞳を反らさない。 真っ直ぐ、飛白を見る。 ――断言する。断言できる!紊駕はあのコと付き合えない!!紊駕は、あのコのこと好きにはなれないよ!!! 葵矩の言葉。 胸に突き刺さった。 きさらぎ 「如樹先輩……?」 飛白の声が震えた。 紊駕が次に口にするであろう言葉。 「飛白……」 「いや!!」 予測して、首を振った。 「別れないっ。絶対別れない!!」 細い腕に力が入った。 力いっぱい紊駕を締め付けた。 「先輩じゃなきゃいや。如樹先輩じゃなきゃ嫌なの!!独りにしないで。独りに……独りにしないで……」 「……。」 「先輩が、好き。」 「……。」 「側にいて。ずっと……ずっと側にいて。」 飛白は顔を上げた。 小さな唇をかみ締めて、 「でなきゃ……」 決心したように口にした。 涙で真っ赤な瞳。 紊駕は無言で、飛白を抱いた――……。 「紫南帆、大丈夫?」 葵矩は帰宅するなり、ただいまもなしに叫んだ。 「おかえり。」 玄関に紫南帆の顔を見て、安堵の溜息を吐いて、笑う。 「ただいま。もう起きて大丈夫なの?」 「うん。良く寝たし。もう元気元気。ごめんね、心配かけて。」 ムリするなよ。紫南帆の頭を叩いて、靴を脱ぐ。 「ところで、紊駕は?今日、学校休んだだろ、あいつ。」 朝レンで紊駕より先に家をでた葵矩。 1限も出ずに、学校を去った紊駕。 朝のH.Rに紊駕の姿がなかった葵矩は、当然紊駕は休みだと思った。 「……。」 紫南帆が黙っていると、 「いつものサボリでしょ。全くあいつは。」 美鷺がリビングから顔を出した。 葵矩は、ふーん。と呟いて、首をかしげ、自室に向かった。 窓の外。 確実に日が伸びてきている。 葵矩は私服に着替えて、溜息をひとつ。 まいかわ 今日、舞河さんも部活に来なかった。 天井を仰いで、もうひとつ溜息。 紊駕、お前は……。 ――じゃあ紊駕はいないのかよ。好きなコ、いないのかよ!! ――いない。 ――断言する。断言できる!紊駕はあのコと付き合えない!!紊駕は、あのコのこと好きにはなれないよ!!! ――いつから、ヒトの心がわかるようになったんだ? 葵矩はベッドに腰下ろした。 そのまま後ろに倒れ、天井を仰ぐ。 腕を頭の上で組んだ。 ――言えよ。 ――わかんだろ。俺の心。言ってみろ。 突き刺すような蒼の瞳を思い出す。 紊駕の瞳。 瞳、瞳、瞳。 葵矩は目を閉じた。 瞳が……瞳が、な。紊駕。 「……瞳は、正直なんだよ。」 誰もいない部屋。 葵矩は目を開けて、口にした。 手入れの良く行き届いたエンジン音に、体を起こした。 庭先で遠慮がちになる、その音。 アルセーヌが吼えた。 葵矩はすぐさま翻して、家をでた。 「紊駕。話がある。」 メットを脱いだ紊駕に、淡と言葉を発する葵矩。 ZXRのライトが消えて、辺りはかろうじて数メートル先が見えるだけだ。 止まったエンジンが静寂を強調する。 「俺は、ないなんて言わせない。付き合えよ。」 いつもより強気で、葵矩は前を歩き出した。 紊駕は無言でそれに倣った。 「お前、俺のこと何だと思ってんだよ。」 家から数メートル離れた所。 葵矩は振り返った。 紊駕の姿はかろうじてわかるが、表情は見えない。 「自分より下等で、他人の心がわからない男……もうたくさんだ!!」 紊駕を睨んだ。 「いつもいつも俺のこと見下して、大人ぶって……お前のそういう所、一番嫌いなんだよ!!」 「……。」 無言の紊駕にさらに続ける。 「紫南帆のこと、お前が何とも想ってないって……好きなコがいないって。そういえば、俺が信じると思ったのか?喜ぶと思ったのか?俺のこと、見下して、そんなに楽しいのかよ!!」 「……何、泣いてんだよ。」 葵矩の声が、涙声に代わるのを紊駕は感じた。 「泣いてなんかないっ……俺は……俺は!」 お互い表情がわからない。 「お前が大嫌いだ。」 「……。」 冷たい風が吹いた。 葵矩が涙をすする音がこだました。 「俺は、自分のことは自分でできる。お前の手助けなんていらない。迷惑なんだよ!!」 ――そんなお前の優しさ、辛いんだよ。憎めればどんなにいいかって。お前のこと、嫌いになれたら、どんなに楽かって…… ひさめ 氷雨の言葉がリフレイン。 「……。」 「……。」 数秒の沈黙。 「……何とか言えよ。何か、言ってみろよ!」 「……悪かった。」 空気の動きで、紊駕が頭を下げたのがわかった。 葵矩は目を瞑って――、 「そうじゃないだろ……そうじゃないだろ!!」 駆け寄って、紊駕の胸座をつかみ上げた。 「……。」 葵矩の表情。 紊駕からはっきり見える。 涙に濡れた瞳。 かみ締めた唇。 「謝って済む問題じゃないだろ……本当に悪いって思ってんなら。今この場で、はっきり言ってくれ。……言えよ!!」 ――お前は、素直になるべきだ。 紊駕は瞳を閉じた。 そして、胸座を預けたまま、葵矩を見た。 真っ直ぐ。 「……俺は。」 葵矩も目を反らさない。 2人。 真っ直ぐお互いを見つめ合う。 「俺は、紫南帆を愛してる。」 全ての物音がかき消された。 葵矩の腕が緩んだ。 「ありがとう。」 葵矩は、空を仰いだ。 明るい月が顔をだした。 「……。」 「……紫南帆も、紊駕が好きだよ。……愛してるよ。」 なぁ、それくらい気付いてたハズだよな。 だから……。 葵矩は紊駕を見つめた。 その瞳は優しかった。 「勘違いするなよ。だからって俺はあきらめないからな。俺の気持ちはそんなに軽いもんじゃない。」 誠意の瞳。 好きなコの幸せを側で見守るのも、悪いポジションじゃない。 俺は、それでもいい。 それで、いい。 葵矩は軽く笑った。 そして、紊駕の肩を優しく叩いた――……。 >>次へ <物語のTOPへ> |