T 「ええ所やなぁ。」 真夏の湘南海岸。 少年は、真っ白な大きな雲の泳ぐ、真っ青な空を振り仰ぐ。 目の前には、空にも劣らず広大な海原。 やはり、青い。 時折吹く潮風が、後ろに撫で付けている黒髪を、優しく撫でる。 少年――飛龍 海昊、中学一年、十二歳。 今朝、大阪からここ、神奈川県藤沢市の江ノ島に足を踏み入れた。 観光ではない。 理由あって、家出をしてきた。 足元には、大きな鞄がずっしりと腰をおろしている。 「ほな、いこか。」 独り言を呟いて、重たいバッグを持ち上げた。 海昊の心は、開放感で満ちていた。 知らない街。 知らない人々。 全てが新鮮で心地よい。 突然の電子音に眉をひそめる。 ため息。 「何や。」 携帯電話に耳を傾けた。 「坊ちゃんですか。……あの、せめて場所くらいは……」 「坊ちゃんゆうなゆうてはるやろ。何度言わせんのや。ワイはワレを信用して携帯かて受け取ったんや、場所かて教えられんわ。ワイから連絡するさかい。それよか、オヤジにバレんようしとき。」 関西弁特有の早口で捲し立てる。 「す、すんまへん。せやけど……ほんまに心配やさかい。」 「よう解うとる。大丈夫や。せやけど、ちっとだけ、ワレに力かりるかもしれんさかい。そんときは、よろしゅうな。」 左エクボをへこます。 電話口で男は、敬礼。 「それはもう、海昊さんの為やったら命張れますさかい、なんなりとゆうてください。」 そして、声を潜めた。 「せやけど。海昊さんいなくのうたの、二代目に知られはったら、全国中さがしまっせ……。」 「それは、何とかしとき。ワイかてバカやない、バレんようしとくわ。」 「は、はぁ。……ホンマに夏休みが終わるまでには、戻られる……」 言葉の途中で、海昊の冷たい視線が電話口を通して伝わった。 「疑うとんのか?」 男は、姿勢を正す。 「いえ。まさか。どうか、お気をつけて……将来は飛龍家をお継ぎになられるお人やさかい。その辺はよう……」 再び海昊は遮った。 「その話は耳にタコや。もう聞きとうない。ほな、また。」 「あ……。」 電話は無残にも切られた。 再び青い空を見上げる。 ため息。 飛龍 海昊――日本一大きなヤクザ組織、飛龍組の跡取り息子。 「誰が戻るか、あんな家。」 転がっていた空き缶とともに、はき捨てた言葉。 防波堤の下に落ちていく。 「あぶねーだろ。下見蹴れよ、コラ。」 下からの声に、我に返る。 「す、すまん。どーもなっとらんか?」 海昊はあわてて、防波堤を降りた。 「コントロールいんだな。」 「笑ってんなよ、氷雨。」 足元の缶を蹴り上げた男。 赤く染まる長い前髪、切れ長のシャープな瞳。 優しい笑みを浮かべた男。 黒髪のリーゼント。 いずれも端整な顔立ちをしていて、男前だ。 「へぇ、大阪から一人で来たのか。」 何となく、フィーリングが合った。 三人は、防波堤に座り込み、話始めた。 潮風が優しく三人を包む。 「そや。」 「おまえ、……行くとこあんの。まさか、日帰りじゃねぇだろうし。」 氷雨、と呼ばれた男に、あたりまえだ、と言う顔をして大きな鞄を顎で指す、男。 「家出でもしてきたんだろ。」 ご名答。 海昊は素直に頷いて、家を探している旨を伝えた。 「そんなカンタンに行くかよ。」 ため息。 「まぁ、そうなんやけど……。」 言葉を濁した。 先ほど電話をよこした男、斐勢――飛龍組系流水組の総統、いわゆる海昊の側近。 に、力を借りようと目論んでいたことを飲み込んだ。 ここでは、普通の人でありたい。 「俺の家にくるか?」 「え……。」 氷雨の言葉に少しためらって、二、三度瞬きをした。 「氷雨の家、弟と二人暮しだから、遠慮いらねーってよ。」 氷雨が相好を崩した。 「俺、滄 氷雨、高2。」 氷雨――男らしい、強さをもつ、優しい笑み。 「ワイ、飛龍 海昊や。中1、よろしゅうお願いします。」 「如樹 紊駕、中1。よろしくな、カイ。」 ニヒルにわらった顔も、サマになる。 紊駕――同い年とは思えない大人びた、風体。 「よろしゅう、紊駕。」 握手を交わした。 初めから出会うことが決まっていたかのような、そんな感覚に陥る。 空は晴れ晴れしく、海は穏やか。 潮風は優しい。 くっきりと形作られた江ノ島。 「カイ、後ろ乗れよ。」 無造作にほおり投げられたヘルメット。 長い足でまたぐ、KAWASAKI ZEPHYR。 手入れが良く行き届いていて、ダークパープルが煌く。 「乗れっゆうたかて、ワレ、無免許やろ……?」 「あたりまえだろ。」 平然。 「俺は免許もってるぞ、海昊。」 苦笑して、氷雨。 HONDA CB400 SUPER FOURの後ろを叩く。 輝く、レッド。 「ほなら、氷雨さんの後ろのせてもろお。」 「てめぇ。」 嫌味なく一笑に付す。 二台の単車は重低音を吐き出して、勢い良く風を切った。 「気持ちええなぁ。」 無邪気に笑う。 二台は隣に並んだ。 赤信号。 「どこまで行くん?」 「鎌倉。つってもわかんねぇか。ここから東にいったとこ。15分くらいかな。」 俺の家。と、氷雨は説明した。 「……ホンマにええんやろか。」 「気にすんな、って。俺んトコ親が離婚して父親に連れられんだけど、父親は帰ってこねーし。弟と二人暮し。さっき紊駕が言った通りだからよ。好きなだけいていいよ。」 「……ありがとうございます。」 あっさりと自分の身の内を語る氷雨。 事実を受け入れ、且つ前向きだ。 海昊は心から感謝した。 初めて会った自分を。 何を聞くとも無く、受け入れてくれた。 単車は海沿いをずっと、東に走り、左に折れた。 町並みが古風なものに変わった。 スピードが落ちる。 「あ、お兄ちゃん!お帰り!!」 CB400 SUPER FOURの音を聞きつけて、玄関から出てきた少年。 「ただいま。俺の弟、細雨。小4。」 氷雨は弟を紹介した。 新しい兄貴ができたぞ。と。 「飛龍 海昊や。よろしゅう、細雨くん。」 「細雨でいいよ、海昊さん。」 よろしく。白い歯がこぼれた。 幼い、無邪気な笑い方。 人懐こい。 「細雨、このあいだ貸した雑誌は?」 紊駕はとっくに部屋に上がりこんでいる。 「あ、紊駕さん。今行く。」 さほど広くない、廊下を走って、紊駕の元へ駆ける。 氷雨は微笑して――、 「こんな家だから、気兼ねしなくていいからな。紊駕なんか、自分の家みたいだろ。」 「……おじゃまします。」 こじんまりとした六畳部屋。 家族の温かみは感じられないが、兄弟は強い絆で結ばれているのを感じる。 友人たちが気軽に集まるような、氷雨の人望の厚さも感じる。 「ねぇね。海昊さんってどこからきたの?」 「大阪や。」 細雨が小さな頭に日本地図を描く。 すごい、と歓喜の声。 「ずっと家にいていいからね。」 小さな手が海昊のそれをつかむ。 「おおきに。」 温かく柔らかい空気。 見ず知らずの自分を容易に受け入れる。 その空気をかき消す甲高い電子音。 海昊の眉間に皺がよった。 電源を切っておけばよかった。 「何の音?」 「あ、ちょっと、すまん。」 細雨の声に立ち上がって、部屋から出た。 着信――斐勢。 ため息。 鳴りやまない音に、もう一度ため息。 「何や斐勢、電話するなゆうとーやろ。」 小声。 携帯電話をしっかり握る。 「す、すんまへん……あの……。」 「何や。」 斐勢の声がおどおどしている。 瞬間。 「海昊なんやな?ワレ、今どこにおるんや!」 「お、親父……。」 低く、ドスの利いた声。 飛龍組、二代目総統、飛龍 颯昊。 「帰ってこんかい。今迎えやるさかい。何処におるんや。」 低く、押し込めた声。 海昊は意を決したように、唇をかんだ。 「……帰らん。」 「何やて?」 深呼吸。 「ワイはもう、家には帰らへん。」 息を吐ききった。 沈黙。 「あ、海昊さん?何やようわからへんけど、二代目、行ってしまわれました……。」 電話口の斐勢。 呆気にとられている顔が、目に浮かぶ。 「ええよ。ほなら。」 電話を切った。 ため息。 「み、紊駕。」 紊駕が壁によりかかって長い足を投げ出している。 冷めた瞳。 「聞いとったんかワレ?」 「嫌でもきこえる、声でけぇぞ。」 冷静沈着。 それ以上何も言わず、冷蔵庫に手を伸ばした。 「飲む?」 「……おおきに。ワイんちな……え、紊駕。これ、ビールやないけ!!」 手渡された缶を眺め見る。 麒麟麦酒。 「何で?飲めねぇの?」 飄々と言ってプルトップを抜いた。 炭酸がはじける音。 「そ、そうゆうわけちゃうくて……。」 「あ、そ。氷雨、投げるぞ。」 意に介せず、氷雨に向き直った。 「あ、こら。まずくなるだろ。」 氷雨の言葉虚しく、ビールは空を飛んで、氷雨の手元に落ちた。 六畳間に戻って、海昊は紊駕と氷雨の前で、きちんと座る。 「……あの、ワイ。ワイん家、カ、カタギやないんや。」 上目遣いで二人を見た。 今まで、何度も見てきた。 驚愕の――……、 「で?」 紊駕が一蹴。 赤く染まる前髪から覗く、蒼い瞳が射抜いた。 毅然。 「……ワイ、家が嫌で飛び出して来て……」 「だから?」 紊駕が言葉をかぶせる。 「せやから……」 「カンケーねぇよ。」 冷めた瞳。 でもその奥は、とても温かい。 「そうだよ。それに、最初からワケありだとは思ってたし、いちいち言わなくていいよ。海昊。」 優しい氷雨の言葉。 細雨の笑顔。 何度も経験してきた、驚愕の瞳の色は全く無かった。 「……ありがとうございます。」 涙が出そうだった。 知らない街――少しずつ。 知らない人々――ゆっくりと。 変わっていく。 馴染んで、心地よく――……。 >>次へ <物語のTOPへ> |