アイツの腕が、あたしから放れた。 「目ぇ、つぶれよ。ばぁか。」 乾いた笑い。 「……ってめーが、いきなり……この、強姦やろっー!!」 あたしの頬を赤くしてゆった言葉に、イタズラな笑みをこぼして、 「あした、学コ、いくからぁ。」 アイツはバイクで去っていった。 バイクの音が消えて、あたしは家へ脚を向ける。 今は、何にも考えたくないや。 何も、考えられない。 家の近くのコンビニに寄った。 夕食のオニギリと、脱色剤。 家に入ると、じーちゃんも、ばーちゃんも、弟も、誰もいなかった。 風呂場で無造作に脱色剤をかぶる。 手が少しかゆかったけど、がまんした。 あおい ひさめ 滄 氷雨……。 アイツが頭から離れない。 風呂をでて、髪を乾かしたけど、何も変わってなかった。 落胆と安堵のため息をついて、オニギリをほおばった。 真っ暗な台所に、薄暗い電気。 「あさざー!!帰ってるの?」 地鳴りのような足音を響かせて、ばーちゃんが台所まできた。 「何時だと思ってんの?今日は始業式だけだろ!!」 カナキリ声。 うるさい。 心の耳をふさぐ。 たきぎ 「……薪。」 ばーちゃんの後から、じーちゃんに捕まれた弟の小さな身体があった。 猫のように捕まえられて、今にもほおりだされそうだった。 無造作に薪に振り落とされた腕。 「やめて!」 あたしがじーちゃんをつきとばす。 「あさざは黙れ!!それより、帰りが遅いじゃないか!何してたんだ!」 「……。」 あたしが黙ってると、再び薪に鉄拳が降り注いだ。 やめて。 薪は、弟はまだ小4なのに。 身体も小さいのに。 でも、薪は泣かない。 真っ赤な顔をして、いっぱい、いっぱい傷があって。 身体にもアザがたくさんあって……。 それでも、薪は、泣かない。 「あさざ!!あんた、何したの!!」 ばーちゃんが、ヒステリックな声を上げて、風呂場にあった脱色剤を手に握ってた。 間髪入れずに、平手。 頬に痺れを感じる間もなく、髪をつかまれた。 「いーかげんにしなさい!!」 じーちゃんとばーちゃんは、お父さんのほうの両親で、お父さんとお母さんの結婚には反対だった。 お母さんの両親はもういない。 じーちゃんもばーちゃんも、あたしたちのことが嫌いだった。 お父さんとお母さんはカケオチをしてあたしたちを生んだ。 そして、一緒に死んだ。 「きーてんのか!!」 鉄拳の嵐。 「薪も!今度またケーサツのお世話になってみろ!!ただじゃおかないぞ!!」 助けて。 助けて、氷雨――……。 あたしは、逃げ出した。 あの家から、逃げた。 湘南海岸。 海の音。 連れ去ってほしい。 何処でもいい、ここから連れ去って。 聞き覚えのある重低音に振り返る。 「なぁに、やってんの。」 「……氷雨。」 迷わず、飛び込んでた。 氷雨の胸に。 氷雨は何も言わず、腕に力を入れた。 しばらくして、バイクの後ろを優しく叩いた。 氷雨の家――、 「おかえり、遅かったわね。」 こじんまりとしたアパートの一角。 ひどく疲れた、氷雨のお母さんが居間で腰を下ろしていた。 あたしは軽く会釈をした。 ――両親仲悪くて、何度も離婚話とかでてて。 皆城 造の言葉が蘇る。 ――おかえり、遅かったわね。 母親の言葉。 氷雨は、あたしを送ってから、一度も家に帰っていないということに気がついた。 しぐれ ささめ 「俺の女、あいさつしろ。時雨、細雨。」 脚でドアをけった。 けっこう年が離れてる、妹と弟。 軽く挨拶を交わす。 氷雨の部屋。 シンプルで、モノトーンにまとまってた。 静かな家。 腰を下ろす。 無言。 どうした、なんて、口はいわないけど、瞳がゆってる。 「……うち、弟が生まれてすぐに両親が死んで……。」 氷雨の優しさに、涙が出た。 人前で泣くことなんて、なかったのに。 氷雨の雰囲気がそうさせる。 弱音なんて……。 氷雨は黙ってた。 あたしの気の済むまで。 全部を吐き出すまで。 そして、言葉がでなくなったころ――、 氷雨の顔が近づいてきた。 蒼の瞳は閉じている。 「きゃあ。」 思わず、奇声をあげて、氷雨を押した。 「いってぇ。あたまうったぁ。」 声高々とゆう。 ジョークフェイス。 「だって。急に……。」 「涙。止まった?」 優しい、表情。 「……。」 すごく、優しい。 気にするそぶりもみせないで、気遣って。 小さいことにも、気がついて。 きっと、そう。 あたしを送ってくれたとき、ずっと家に帰らずあの辺りにいた。 初めてあったときから気づいてた。 あたしが、ワケありだってこと。 この蒼い瞳で、見抜いてた。 あたしの心臓が音をたてる。 氷雨の瞳に捕まって、動けない。 こんな風に、誰かに、どきどきしたことなんて、一度もなかった。 「目ぇ、つぶれよ。」 高飛車な態度。 会ったばかりなのに。 ずっと前から一緒にいたみたい。 あたしは、金縛りにかかったように、目を閉じた。 2度目のKISSは、少し苦い、タバコの味がした――……。 そんな、静寂を破ったのは、玄関からの激しい大きな物音。 続いて、ガラスが割れる音。 「待ってろ。」 氷雨の瞳が変わった。 射るような、刺すさすような、鋭い瞳。 あたしはそっと、ドアの間から顔を覗かせた。 「また、飲んできたの?」 「カンケーねーだろう。」 ひどく酔っ払った、男のヒト。 お父さん……? 「今日は、随分早いのね。」 お母さんは自分の肩を抱いて、視線を逸らした。 「お前が男連れ込んでねーか、見にきたんだよ。」 「……何よ、それ。」 お母さんが目をむいた。 瞬間。 「うるせー!!」 テーブルに置いてあった、食器が全て床におちて、砕けた。 母親と妹の叫び声。 弟の泣き叫ぶ声。 「氷雨!お願い、早く。きゃあー!!」 氷雨を呼ぶ瀕死の声。 氷雨は素早く妹と弟を玄関の外に出した。 「時雨、細雨連れて、ばあちゃん家いってろ。」 氷雨は母親を守る盾になった。 叩く、殴る、蹴る。 父親に容赦はない。 やめて。 あたしは頭を抱えた。 耳もふさいだ。 氷雨は何も言わずに殴られている。 こわい。 薪……。 小さなあの身体が、氷雨とダブる――……。 「なーに。泣いてんだよ。」 部屋の外で膝を抱えてたあたしに、氷雨がゆった。 顔を上げると、傷だらけの氷雨。 辺りは静かだった。 「悪かったな。飲むとああでさ。当分帰ってこねーから、大丈夫。」 「あたし……、あたし……。」 言葉が繋がらない。 帰らなきゃ。 薪が……。 自分だけ逃げ出した。 薪を置いて。 自分だけ。 「ありがとう。」 氷雨は優しくあたしの頭をなでて、胸にうずめた。 そして、かるく、頭を叩いた。 大丈夫。 あたしは、家に帰った。 静かに部屋に行く。 「薪……ごめん。ごめんね。」 小さな身体を丸くして、TVゲームを無言でやっていた薪をうしろから抱きしめた。 「手元がくるうだろ。」 薪が振り返る。 たくさんの、傷。 「姉貴のせーだかんな。」 TVのゲームオーバーの表示を指差して、唇を尖らせた。 何でもない顔をする。 「薪ぃ……。」 いつか。 白紫に薪と同じ年の弟がいるから、友達になればってゆったことがあった。 薪はいつも一人で。 生まれてすぐに死んだから、両親の顔さえ知らなくて。 友達はたぶん、作ってない。 学コでもひとり。 じーちゃんに殴られても。 ばーちゃんに叩かれても。 傷がたくさんあって、アザがたくさんあっても。 泣かない。 薪は、泣かない。 じっと、この小さな身体で、こらえてる。 あたしは薪の泣いた顔を、見たことがない――……。 |