
♪10小節♪
「お母さん、ごめんね。」
ゆづみ
鎌 玄関先で夕摘は靴を履いて、ボストンバックを手にした。
薄い唇はきつく結ばれ、決意を表していた。
芯 整った眉はややあがり気味で、まっすぐ前を見ていた。
あれから、2ヶ月が経っていた。
開け放たれた玄関の扉から入ってきた春の風が、背中を押す。
「ゆづ姉。やっぱ俺も……」
「いってらっしゃい。」
つづみ
坡の、一緒に行こうか。と続けようとした言葉をさえぎって、母親は元気よく言った。
で 肩をたたかれる。温かい。
俚 「つづ……、大丈夫。ありがとう。」
自分に言い聞かせるように笑顔を見せて、実家を出た。
や 青空に、桜が花咲くのを待ちわびていた。
大丈夫。もう一度、つぶやいた。
久しぶりの自分のマンション。予想通りにひどい有様だった。
そ 洗い物はシンクの中に、今でも崩れんと重なり合っていた。
洗濯物も洗濯機からあふれている。至るところに積っている埃。
夕摘は時計を見上げた。
夫が帰宅するまではまだ時間がある。
バックをおいて、エプロンをかけ、腕まくりをした。
洗濯機をまわし、洗い物を片付け、床を磨いた。
ひとつひとつ丁寧に。最後の掃除を完璧にこなした。
すべてが片付いて、ダイニングテーブルにつく。
バックから書類と指輪を取り出した。
離婚届。
矜 記入も捺印も済んでいる。
駆けてくる足音。玄関の鍵がせわしなく開かれる音がした。
夕摘に緊張が走った。
反 「夕摘っ?」
夫は明かりを見つけて急いで上がってきたらしい。
そ 肩で息をしている。
久しぶりに見る夫は、変わっていた。不精に伸びるひげ。曲がったネクタイ。
身なりに気を使う夫らしからぬ風体。
夫は安堵のため息をついたかと思うと、いきなり夕摘を抱きしめた。
「 夕摘の体は反射的に強張ったが、その抱擁は優しかった。
や 「おかえり。帰ってきてくれはったんやな。」
何度も、何度も夕摘の頭を撫でた。
ありがとう。と連呼した。涙声にも聞こえた。
隣 いつも、夕摘が何をしてあげても当然という顔をしていた。
礼などいわれたこともない。
「すまん、ほんまにすまん。」
弱みなど、一度も見せたことがない。まして、謝ることなど。
夕摘は困惑していた。
優しく抱かれている腕。頭を撫でる手。
夕 「離婚届……?」
無表情でつぶやく夫。腕を緩めて夕摘の表情を伺った。
「……ごめんなさい。」
夫の目を見た。動揺が見て取れた。
うそやろ。と、その場に腰砕けになる夫。弱々しい。赤子を見ているようだった。
落胆する夫の姿は、夕摘の予想とは正反対の態度だった。焦点の定まらない目。
「……せやな。ワイが悪かってん。」
ぽつり、ぽつりと口にした。
この6年間、夕摘をかまってやれなかった。仕事を優先した。
苛立ちのはけ口にした。
「……すまん。ワイ、ほんまサイテーやねんな。」
深々と頭を下げる夫。
そのままの姿勢で、夫は独り言のように言った。
首 「夕摘がいなくのうて、ようやく自分のアホさに気ぃついたんや。」
首 床を見下ろしたまま、拳を自分の太ももを叩いた。
首 いつもはきちんと整えてある髪が額にかかる。前髪も伸ばしたままだ。
首 「夕摘がどんな気持ちでメシつこうてくれて、帰りを待っとってくれてたか。」
矜 甘えていた。
矜 夫の言葉。胸が締め付けられる思いがした。
矜 「……女もつこた。」
矜 夫が顔を上げた。潤んだ瞳が、言葉とは裏腹に誠実さを物語った。
矜 浮気。信じてもらえないかもしれないが、一度だけだ。と言った。
矜 道頓堀でのラブホテル。夫は正直に告白した。
矜 つづし
矜の顔がフラッシュバックする。夕摘の胸が、さらに苦しくなった。
矜 「ほんまに、ほんまにすまんかった。せやけど……」
2 ワレがおらな、生きていけへん。足元にすがる夫。
坡 こんな、プライドの高い人が、亭主関白の人が……、
「お願いや。別れるなんて、ゆわんといて。」
甘えていた。夫の口からそんな言葉が出るなんて。
夕摘は口元おさえた。
「……ごめんなさい。私……あなたに謝られる資格、ない。」
窓 もう、戻れないと解っていた。心の空いたスキマを自分から埋めにいった。
矜 「私は、あなたを裏切った。」
矜 夫の顔が上を向く。眉間に皺を寄せ、目をつむる。
矜 夕摘は罵倒されることを覚悟した。
矜 しかし。
矜 罵倒ではなく、優しく力強い抱擁だった。
矜 「夕摘さえいてくれたら、それでええ。」
矜 「……。」
矜 背中をさする、優しい腕。
矜 ――もう、いいから。
矜 大丈夫、ゆづは大丈夫だ。
矜 「ダメ。……ごめんなさい。別れさせて……」
矜 苦しくて涙があふれた。切なくて、胸が痛い。嗚咽が止まらない。
矜 胃がムカムカする。飲み込んだ涙が逆流する。
矜 「うっ……。」
矜 夕摘は両手で口元をおさえた。
矜 洗面所に駆け込んだ。胃の中のものがすべて外に出される。
矜 大丈夫か。と、夫が心配そうに背中を撫でた。
矜 「……夕摘、もしかして。」
矜 夫の言葉に、夕摘は目を見開いて、自分のおなかに手を当てた――……。
><<前へ 次へ>> <物語のTOPへ>