♪2小節♪



    「今日、残業で帰れんわ。ほな。」
   こちらの返事も待たずに、電話は切られた。
                             ゆづみ
   小さく溜息をついて、夕摘はエプロンをはずした。

   ダイニングテーブルに、所狭しとならべられた夕食の品々。
   いらないなら早く連絡してよ。と、言う気持ちはとうに失せている。

   慣れた手つきでラップをかけていく。
   長く、柔らかい髪を留めていたバレッタをはずして腰掛けた。

   またか。
   短大を卒業後、一般企業に入社して知り合った夫とすぐに結婚。
   寿退社後、大阪に引越して、早6年。
   以前は夫の両親と暮らしていたが、両親が気兼ねをして、新居に移れと促した。
   その結果が今。
   今だに子供はいない。
   今年、28歳。
   遅すぎはしないが、早すぎではない。
   夫は、帰りも遅く、休みも少ない。
   6年も一緒にいるが、合計何時間一緒にいるんだろう。
   などと、無意味なことを考えた。
   幸せでないことはない。
   仕事命の夫。
   夫の世話と家事に勤しむ毎日。
   もう少し、夫婦の時間がほしいが、ムリはいえない。
   働きに出たい。と、言ったこともあるが、許容されなかった。
   夫はある意味、頑固で亭主関白の嫌いがある。
    「もう少し……甘えてくれてもいんだけど、な。」
   細い顎に手をついて呟く。
   弱みを見せたくないためか、夕摘にはあまり相談をしたり甘えたりしたことがない。
   仕事の話は一切しないし、帰宅しても黙々を自分の世界に入る。
   それはそれでいいのだけれど……。
    「私はあの人の支えになれてるのかな……。」
   疑問が沸く。
   自分がいることで、夫に何かをもたらしているのだろうか。
   夕摘は、かぶりを振った。
   気分転換に外に出よう。
   大阪、道頓堀。
   相変わらずの賑わいに、少し心が和んだ。
   最近では、道頓堀の看板も、あのグリコも。
   あのカニでさえ、親しみを感じる。
   大阪の人間になってきたんかな。
   時々言葉に関西弁が混ざる。
   大阪人にいわせれば、偽りらしい、が。
   大阪には、夕摘が幼少時代から過ごしてきた神奈川とは全く違う雰囲気がある。
   溶け込むには時間がかかったし、果たして今、溶け込んでるかも怪しい。
   夕摘は、難波駅を背に当ても無く歩いていた。
   夕刻のここは、混雑のピークだ。
   お好み焼き屋、たこ焼き屋、様々な屋台に長蛇の列ができている。
   修学旅行生か、学生服を着た人もちらほら。
    「……。」
   突然、夕摘の長く細い脚が静止。
   前方に、きちんと身なりを整えたスーツ姿の男性。
   隣には、タイトスカートの女性。
   釘付けになる。
   2人が路地に入るのを、我に返り、追いかけた。
   大通りから一歩ずれた小道。
   ラブホテルが点在する、その通り。
   肩を寄せ合って、2人は、ラブホテルの前を歩いた。
   その様を、夕摘はある種、客観視していた。
    「……夕摘さん?」
   突然の声に、思わず大げさに振り返ってしまう。
           かいう
    「海昊、くん?」

   黒の学ランがやけにサマになっている。
   後ろに撫で付けられた黒髪。
   優しく精悍な顔立ちからは、威厳さえ感じられた。
                  つづみ
   海昊は、夕摘の弟、坡の友人だ。

   平素ではないと悟ったのか、海昊は、夕摘と、夕摘が見ていた2人を交互に見やった。
   2人に視線を移し、当然の如くラブホテルへと消えたのを見届け、改めて向き直った。
    「……旦那。」
   海昊は、予想していたのだろう、複雑な笑みを見せた。
   左エクボが微かにへこんだ。
    「修学旅行やねん。」
   本物の大阪弁ではにかんだ。
   海昊の隣にいる青年は、尖った顎で挨拶をする。
   何年か前に、弟に紹介された。
   尊敬する人だと。
   10歳もはなれている弟。
   久しぶりに会ったら、男になっていた。
昊  海昊の存在は、弟にとってかけがえのないものにちがいない。
   夕摘とは逆に、本家の大阪から神奈川に引っ越した海昊。
   何だか、大きく見えた。
    「大阪に旅行もないねんけど。」
   地元やねんから。と、自嘲してみせる。
   どうしたのか。とは尋ねなかった。
    「大丈夫。ありがとうね。」
   夕摘は、笑顔を作って翻す。
   旅行、楽しんでね。と、かろうじて伝えられた。
   足早に自宅に戻り、置き去りにした夕飯を見て、涙が溢れ出た。
   口元を手で押さえ、嗚咽をもらす。

   まさか。
   まさか。

   言葉にはできなかった。

   2人の後ろ姿が焼きついて離れない。

   どのくらいそうしていたかは、定かではない。 

   夕摘は意を決したように、テーブルに両手をついて立ち上がった。

   口ひとつつけていない料理をすべて片付けた。

   何かをしていないと、どうにかなってしまいそうだった。

   今朝も隅々まで掃除をしたというのに、雑巾を手にした。   

   もう、塵のひとつも落ちてはいない。

   床に這いつくばったまま、漸く動きを止めた。

   涙が零れ落ちた。

   崩れ落ちそうになったとき、甲高いインターフォンが鳴った。

   夕摘はゆっくりと体勢を整え、目頭をぬぐい、玄関に足を運んだ。




<<前へ     次へ>>                 <物語のTOPへ>



1小節2小節3小節4小節5小節6小節7小節
 ♪ 8小節9小節10小節11小節12小節あとがき