
♪9小節♪
りつか
妻 「ごめんね、俚束。」
ゆづみ
鎌 鎌倉市内のマンション。俚束の家の玄関前で、夕摘は頭を下げた。
つづし
俚束は、夕摘と矜を交互に見て、複雑な表情をしたが、口元を和らげて頷いた。
芯 矜が俚束に連絡をとってくれたのだ。
矜 一言、頼む。と言い残し、矜は足早に背を向けた。
矜のその背中。夕摘は胸が締め付けられる思いがした。
俚 俚束に促され、中へ入る。
「……ホームシックにかかるの早いわね。」
ボストンバックを見て茶化すように笑った。
夕摘は、ごめん。と呟いた。
で 綺麗に掃除がなされている玄関に、コンビニで買った傘を立てかけた。
俚 「……正直いって。あたしは、嬉しいよ。」
こうき りつき
その夜、俚束と箜騎。そして二人の息子の立樹と食卓を囲んだ。
や 「いつも突然……ごめんね。」
甘えてごめん。と旧友に感謝を示したが、俚束は首を振った。
「あんたと矜のことよ。」
歯に衣着せぬ言い方に、どきっとさせられた。
そ 箜騎は不安気な表情を隠さなかった。
俚束は、夕摘が来たときに玄関に置いた傘に視線をやる。
昨日の夜から早朝まで降っていた雨。
簡易傘。
夕摘の薬指にあるハズの指輪。
推測は容易だったハズだ。
「いくらだって、やり直しはきくと思うよ。」
俚束の大きな瞳が諭す。
でもね。と、歯切れよく言い放って――、
「これは、あたしが夕摘と矜の親友だから、言う。」
矜 前置き。
「もし、夕摘に覚悟がないのなら、矜に期待させんのは、やめて。」
真面目な面持ちの俚束。夕摘は、はっ、とした。
箜騎が、おいっ、と制すが構わず続ける俚束。
反 「夕摘は元サヤでいいけど、矜はまた、ずっとあんたを忘れらない。」
――もう、いいから。
そ ――大丈夫、ゆづは大丈夫だ。
夕摘の頬を涙が伝った。
箜騎が心配そうな顔をして見つめる。
「今まで矜が付き合ったコ、皆夕摘の面影もってた。」
「 「俚束、やめろ。」
箜騎が今度は声で制す。
や 「やっと、やっと吹っ切れたと思ったのに!」
「俚束!やめろってゆってるだろ!」
箜騎が叱咤した。その声の大きさに立樹が泣き出す。
隣 「……ごめん。ごめんなさい。」
俚束はため息をついて、そして息子を抱き上げた。
「夕摘さんが悪いわけじゃないだろ。責めるなよ。」
すみません。と、箜騎が頭を下げた。
夕摘は、首を振った。
わかっていた。
「 自分がどれくらいズルイか。
夕 矜に甘えた。俚束に甘えた。実家に、弟に……。
「……帰るね。」
俚束は泣き止んだ立樹を抱いたまま、顔色は変えなかった。
つづみ
「坡に連絡しといた。実家でゆっくり考えなさい。」
親友だからこそ、言ってくれる厳しくて優しい言葉。
ありがとう。と、心から礼を言った。
程なくして、水冷エンジン特有の音がマンションの前で静止した。
「来たみたいね。」
また、弟に迷惑をかけた。ダメな姉だ。
「……ね、夕摘。甘えるななんて、ゆってないよ。」
そんな夕摘の気持ちを理解して、俚束は優しく言った。
「夕摘はむしろ、甘えていい相手にしっかり甘えなさい。」
首 甘えていい相手……。
首 「ゆづ姉。」
首 坡は俚束と箜騎に頭を下げた。夕摘の腕を取る。
首 夕摘は、ごめん。と呟いて俚束の家を後にした。
矜
矜 実家に帰ると、いつもの雰囲気で両親は夕摘を迎え入れた。
矜 母は、台所に向かったまま、夫から電話があった旨を伝えた。
矜 「夫婦ゲンカもいいけど。連絡してから来なさいよ。」
矜 ご飯なくても知らないわよ。と、笑った。
矜 夫婦ゲンカ……。夕摘は眉間に皺を寄せた。
矜 「世間体気にして、連絡してきたのかよっ。」
矜 2階の部屋で、坡はゴミ箱を蹴飛ばした。舌打ち。
2 あんとき、帰すんじゃなかった。と、坡は独り言のように言った。
坡 夫の浮気現場を見たときは、見て見ぬ振りをして日常に戻った。
知らぬ存ぜぬを通した。夫も何も言わない。
「ゆづ姉、別れろよ。」
坡は鋭い一重の目を突きつけた。
弟の真剣な顔。夕摘は目を逸らせなかった。
窓 窓をたたく音が聞こえて、坡が窓を開けにいった。
矜 てつき
隣の家からベランダ伝いでやってきた轍生。いつものことだった。
矜 「おすそわけ。」
矜 夕摘のことは何も言わずに、ケーキの箱を差し出す。やんちゃな瞳。
矜 3人で小さなテーブルを囲んだ。
矜 「帰さねぇから。」
矜 ケーキを平らげて、その続きかのように坡は言った。大人びた顔。
矜 彼女に言うセリフなら喜ばれるだろうに。
矜 「……ダンナさんとはちゃんと話、したの?夕摘姉ちゃん。」
矜 風体に似合わず、優しい声で轍生。夕摘の顔を心配そうに覗き込む。
矜 「話すことなんてねぇよ。別れんだから。」
矜 夕摘の代わりに答えた坡は、ふてくされたようにそっぽを向いた。
矜 「……大人には事情ってもんがあんだろ。」
矜 轍生は少し呆れて、坡の肩をたたいた。それを振り払う坡。
矜 俺たちにわらかないことがたくさんあるんだよ。な。と宥める。
矜
矜 いつからこんなに大人になったんだろう。
矜 轍生も坡も。
矜 自分がこんなんじゃ、いけない。止まったままじゃだめだ。
矜 改めて自分を振り返った。
矜 この6年、夫の忙しさにガマンして、波風立てぬようにしてきた自分。
矜 甘えないよう努力した。でも、ちゃんと向き合っていなかった。
矜 つづし
「矜さんとは、どーすんだよ。」
矜 二人に礼を言った後、坡が真剣な顔で夕摘を見た。轍生は視線を逸らした。
矜 夕摘は押し黙る。
矜 気がつけば、いつも傍にいてくれた。元気付けてくれた。
矜 心の空いたスキマ。優しく触れた。
矜 「矜さん。ずっとゆづ姉のこと想ってんだろ。」
矜 「坡。」
矜 轍生が口を挟んだが、坡は続けた。
矜 「前に帰ってきたときだって。この間だって。矜さんの気持ち……」
矜 突然隣の坡の体が浮いた。胸ぐらをつかみあげて、にらみを利かす轍生。
矜 「それ以上ゆったら、殴んゾ。弟だってゆっていーことと悪いことがあんだろが。」
矜 轍生のこんな顔、見たことがなかった。ガタイに似合わず温和な性格。
矜 幼少から優しかった、あの轍生が、夕摘のために怒っていた。
坡が我に返り、悪い。と謝った。轍生が手を緩めた。
矜 「夕摘姉ちゃん、ゆっくり考えなよ。時間はたくさん、あるよ。」
矜 優しい眼差し。坡も目でうなづいた。
矜 ありがとう。夕摘はもう一度、心から礼をいった――……。
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