
4 「……母さん。」 心配そうに覗く母親の顔。 真っ白な天井。 懐かしい匂い。 「睡眠不足の上、温かくしていなかったな。ばかものが。」 「……父さん。」 優しい響きの父親の声。 立は、自分が自分の部屋のベッドの上にいることを悟った。 立が出て行ったときのまま、且つ整頓されている。 「父さん……俺。」 「ゆっくり寝ていなさい。」 ぶっきらぼうに語尾を強めたいった父親に、ありがとう。と、呟いた。 その優しさに涙がでそうになった。 「立ちゃん、頭痛とかはしない?」 「大丈夫だよ、母さん。……心配かけて、ごめん。」 母親は目頭をぬぐって、戻ってきてくれただけで嬉しい。と、喉を涙で詰まらせた。 温かい手で自分の手を力強く握ってくれる。 「母さん……ありがとう。」 もっと早く。 気付かなかったんだ。 いや……もっと早く、何で俺は認めようとしなかった? 母親の手を握り返して、立は昔の自分に後悔した。 父親も母親も妹も。 悲しませずに済んだのに。 しぶき 「母さん……飛沫は?……飛沫は元気?」 兄貴らしいことなんて何一つしてやってない。 自分のせいで大阪の親戚に預けられた飛沫。 今は……。 「ええ。元気よ。もう学校には慣れてお手紙をたくさんくれるのよ。」 待ってて。と、母親は部屋をでていった。 「……。」 南向きの窓から爽やかな風が入ってくる。 瞳を閉じる。 立は妹、飛沫の顔を思い出していた。 明るく、優しい強い笑顔。 ……飛沫。 お前に会って、謝りたい。 やり直せるだろうか。 周りが受け入れてくれるなら、もう一度。 昔に戻りたい。 ――おにいちゃん げんき ですか? しぶきは とても げんき だよ。 きょうは おおさかは はれです。 しぶきは 1ねんせいに なりました。 おにいちゃんは 2ねんせい ですね。 4がつ6にち 水ようび ―― 「……。」 母親がもってきた手紙。 両手にいっぱいの大きな紙袋。 2年も前のもの。 飛沫が大阪の小学校へ入学した日。 立は、中学2年。 ――おにいちゃん げんき ですか? しぶきは とても げんき だよ。 きょうは おおさかは はれです。 きょうは ぞうきん しました。 4がつ7にち 木ようび ―― 慣れない字を丁寧に頑張って書いていた姿が目に浮かんだ。 飛沫は、一日も欠かさずに立に手紙を書いていた。 「……。」 立は、ゆっくりと丁寧に1枚ずつ手紙を開けた。 わずか6歳で親元を離れさせられた飛沫。 ――おにいちゃん げんき ですか? しぶきは げんき だよ。 きょうは こうていで おにごっこ しました。 たのしかった。 4がつ8にち 金ようび ―― 辛いことなんて一言も書いていない。 毎日毎日。 病気の兄を想って……。 読もうとしなかった。 あのころの俺は……。 立の瞳に涙がたまった。 母親は見かねて、静かに部屋を後にした。 ベッドの横の棚に置かれた紙袋。 ――お兄ちゃん元気ですか? しぶきは元気だよ。 わたしは 今日 2年生になりました。 お兄ちゃんは 3年生になりました。 4月5日 金よう日 ―― 1年間分を読み終えても、まだ減らない。 ひとことも返事なんて書いてやれなかった。 手紙の存在すら、知らなかった。 自分のことしか……考えられなかった。 表面張力が限界に達した。 涙は立の頬を伝った。 ――お兄ちゃん元気ですか? 飛沫は、元気です。 今日から私は、3年生になりましたよ。 お兄ちゃんは、高校生。 体に気をつけてください。 4月5日 土曜日 ―― 1986年、今年の春。 飛沫は小学校3年。 漢字もたくさん書けるようになった妹。 毎日欠かさず手紙を書いた妹。 辛いことなど一言も書いていない妹。 自分のことを想う妹。 そして、今日もきっと……。 とめどなく溢れる涙をぬぐうことなく、立は手紙を握り締めていた。 そして、今までの自分に強く、強く後悔していた――……。 「出て行った?」 1学期末テストを来週に控えた、私立K女学院高校、3年の教室。 りつか 俚束は、淋しそうな表情を隠さずに窓の外を見た。 大粒の雨が窓を叩きつける。 「うん。……立、家に戻ったの。」 れづき ゆづみ 頬杖をついて独り言のように呟いた俚束の前の席に腰をかける、澪月 夕摘。 視線を同じくして――、 「良かったんじゃないの?」 俚束が振り向いた。 二重の目は大きく見開いた。 夕摘は続ける。 「良かったんじゃないのかな。」 もう一度繰り返す。 「自分から家に帰ることを決めたんでしょ。立くん。」 自分の中で、何かがふっきれたんじゃないのかな。 夕摘は口元を和らげた。 長く柔らかな細い髪をかきあげる。 「私は、別に!迷惑なんかじゃ……」 綺麗に整った眉をひそめて、些か取り乱す俚束に、 「そういうんじゃなくてさ。」 小さく呟く。 「このままじゃいけないって。立くんの中で、何かそういうの、あったんじゃないのかな?もちろん私の憶測に過ぎないけど。」 ――……俺、家に帰ろうと思う。 ――そーゆんじゃないんだ。 俚束は両手で顔を覆った。 「立は、何も話してくれない。……私、立の気持ち、わからない……」 今にも泣き出しそうな声。 夕摘は、そんな俚束の肩まで伸びる赤いソバージュを撫でた。 「そういうの、あると思うよ。好きだから、大切だから話せないのって、あると思うな。」 優しく微笑む。 「俚束は、立くんを支えてあげなきゃ。」 「……支える?」 「そうだよ。陰から支えてあげる女の子。そういうコ、男の子には必要だと思うな。何でもかんでも干渉して欲しいって人もいるかもしれないけど、立くんは、前者じゃないのかな。」 あまり立くんのこと知らないくせにごめんね。と、夕摘は、かわいく小さな舌を出した。 俚束は顔を横に振って、礼をいった――……。 「え、マジ?」 横浜市内の本牧通り沿いにある、市立M中学校。 1年9組の教室で――、 つづし 「まじ、まじ。今日学コも来てるって。今さっき矜さんに会ったんだよ、俺。」 ほずみ 短い黒髪を、ムースで角を立てている保角が、教室に入ってきた。 とっくに学校が始まっている、午後。 「へぇ。何で急に家に帰ることにしたんだろ。」 とひろ 机の上に乗り、立てひざをついている斗尋は、不思議そうに首を傾げる。 「俚束さんと別れたとか。」 「こら。」 えいま ながき 頬を緩ませて、下から見上げて口にした永真 修。 こうき 箜騎は、椅子の背にもたれて寄りかかり、制服のズボンに両手を突っ込んだ姿勢で、足で修を蹴る。 「ジョークだってぇ。」 「ジョークでもそいことゆーな。」 語尾を下げて、余韻を残して――、 「後で行ってみるか。立さんのトコ。」 ・ ・ ・ ・ 「……そうだな。って、保角。そいや、何でお前午後出勤なんだよ。」 斗尋の言葉に、あからさまに顔の筋肉を緩ませ、 「ヤボなこと聞くなよ、斗尋ちゃあんっ!」 保角は斗尋のパーマがかった茶髪をかき回した。 「だぁ!やめろ。こっの、ぬけぬけとぉ〜!!」 斗尋が腕をふりまわす。 その腕をよける、保角。 ・ ・ ・ 「いーじゃん。斗尋には、かわいーハニーがいんだから。ひがまないひがまない。」 イタズラな笑顔で修。 みやつ 造は、斗尋の座っている机の隣の席の椅子に腰下ろして、苦笑した。 そんな中で、箜騎は真剣な面持ちで、溜息をつくように――、 あおい 「立さんさぁー、滄のこと気に入ってんよな。」 短い茶髪をかきあげるように頬杖をついて、窓の外を眺める。 ここからは高校の校舎は見えないが、通りをはさんだ隣にある。 「あっれぇ?やきもちっすかぁ、箜騎くぅ〜ん。」 「ばぁか。」 一笑に付す。 「でもよ。滄の奴。けっこー何つーか、単独つーかさ。あんま良く思ってねー奴とかいんじゃん。」 語尾を上げ調子で、低い声をだす保角。 かみじょう 龍条さんにもタメ口だしよ。と、唇をとがらした。 そんな保角の言葉に無言で外に顔を向けたのは、造。 修と斗尋は頷いた。 「……夏だな。」 真っ青な吸い込まれそうな空を見て、いった箜騎の突然の言葉に、 「ブッ。何よソレ、箜騎。」 斗尋が噴出す。 箜騎はそのままの声のトーンを変えずに、空をみたまま――、 「思い出すんだよ。……夏のフィールドで、最後に輝いた立さん。」 「……。」 いつも、追ってたから。と、淋しそうに呟く。 「もちろん、今もだけど。」 付け加えて、皆に向き直った。 箜騎と立は、家が隣同士のいわゆる幼馴染。 サッカーもずっと一緒にやってきた。 いつも、立の背中を追っていた。 学校も同じ、ここM中学校を希望した。 しばらく静寂した空気が流れ、口を開いたのは保角。 「……俺は、サッカーに興味なかったから。族入ったとき、アタマがまさかユースのエースだったなんて信じられなかった。」 「突然サッカー界から消えたスターが……まさかって、俺も。」 修も斗尋も頷いた。 サッカーユース日本代表のエースストライカー。 TVをにぎわした少年の未来。 輝いていたはずだった。 いつか、世界の舞台に立つだろうと、皆が確信していた。 しかし、あれから3年の月日が経った今――……。 >>次へ <物語のTOPへ> |