6


  「まさか……いや、そんなことは……」

 薄暗い部屋。
 レントゲン写真を右手に、左手は尖った顎に添えた。
 微かに震えている。

 私立横浜中央病院。
 たつる          かみじょう  よぼる
 立の父親、龍条 丁は、頭に過ぎったことを顔を振って否定した。
 先ほど、息子、立が救急車で運ばれてきた。
             なみか
 一事が万事の妻の波風が取り乱し、丁に連絡をいれた。
 波風には、軽い気管支炎だと伝え落ち着かせた。

 玄関先で突然胸を押さえて倒れた息子。
 重い咳をしていた。
 胸部のレントゲンと念のために、断層撮影、気管支造影もとった。

  「……。」

 左手がさらに震えた。

  「どうした。」

 低く威厳のある声に振り返る。
 真っ白な白衣をきた長身の男。
 端整な顔に、切れ長の瞳。
   ひだか
  「淹駕……。」
 きさらぎ  ひだか
 如樹 淹駕――鎌倉にある私立如樹病院の院長で、丁とは同志の男。
 何かを感じ取ったのか、淹駕はレントゲン写真を左手で丁から奪った。

  「……。」

  「……どう見る?」

 丁の声は震えていた。
 淹駕はレントゲン写真に目を奪われたまま――、

  「断層撮影は?」

 丁が差し出したのに、無言で受け取った。
 気管支造影も手渡す。
 淹駕はやはり無言で、何度も何度も見た。

  「年齢は?」

 淡としたその言葉。

  「16……俺の、息子だ……」

 丁が頭を抱え込んだ。
 淹駕の目が丁をみた。

  「……。」

  「……俺の責任だ。……初期症状を見逃した。」

 デスクに力なく腰を下ろして、うなだれた。
 両手で顔を覆う。
 大きな溜息。

 立の気管支。
 あきらかな異型を示す癌細胞群が上皮内に限って存在していた。
 上皮内癌……上皮性の悪性腫瘍。

  「……立は、昔から肺が悪くて、しょっしゅう熱を出してた。気管支炎も肺炎も何度か……」

  「おそらく、3年くらい前が、初期症状だったんだろう。」

 丁の深い溜息。
 深呼吸をした。
 そうしないと、どうにかなってしまいそうだった。

 この手の癌は、初期症状がなく、早期発見が難しい。
 気管支炎や肺炎と見誤ることもある。

  「中学にあがるころから、よく発熱が見られた。……しかし……まさか……」

 両手が震えだした。

  「このまま放置すれば、浸潤癌に至る。」

 浸潤癌――癌細胞が上皮組織と結合組織の間にある基底膜を破り、結合組織内に浸潤し、ときに血管やリンパ管内に入り、遠隔転移を起こす場合もありうるものだ。

  「肺が悪いといったな。リンパ行性転移より、直接浸潤のほうが可能性大といえるな。」

 つまり、気管支癌を原発巣として、肺に転移する――肺癌である。
 淡々と語る淹駕に対して、丁はおもむろに体を震わせた。
 小刻みに震えるその体。

 淹駕は、無言で、レントゲン写真をデスクの上に投げた。
 丁が顔を上げた。

  「丁。お前は医者だ。どんなときも冷静さを忘れるな。」

  「……。」

 丁の瞳。
 子供のような瞳で今にも泣き出しそうだった。

 ――立が、癌に侵されている……。

  「私を呼んでいるヒマがあったら、何故緊急処置をとらない。このままでは、播種、さらには血行性転移もありうるぞ。」

 播種――癌細胞が体腔内に遊離し、種を播くように広がる。
 血行性転移――血管とくに、静脈を介し、他の臓器を侵す。

 淹駕は真っ直ぐ丁を見つめる。
 端整な口元。

  「とにかく、肺転移は最も危険だ。早期処置を。それと、既に他器官にも広がっている恐れもある。抗癌剤を使用しよう。」

 適切な判断と処置の指示。
 わかっている。
 淹駕の言葉。
 しかし、今の丁の耳には、素通りしていく……。

  「丁!!」

 淹駕は丁の肩をつかんで叱咤した。
 その状態で震えた声をだして――、

  「……公にしたくない……立に……もし、立が知ったら……」

  「……現症状は?」

  「胸痛と、咳……熱もある……」

 気管支癌、肺癌に見られる中期以後の病状だ。

  「も、もう。手遅れだ……肺が弱い分。転移速度も集中して速くおこる……20歳まで生きられれはほんも……」

 丁の言葉は遮られた。
 椅子から転げ落ち、右頬に痛みが走った。
 デスクの上にあったペン立てとペンが転げ落ちた。
 見上げる。
 淹駕が上から左拳を握って、睨みつけていた。

  「あきらめるな。……お前があきらめるな!!」

 鋭い淹駕の瞳。
 丁を突き刺した。

 淹駕は、左拳を下ろして、転がったペンをとりに――、

  「……立くん。」

  「……。」

 淹駕の言葉。
 丁の目が大きく見開いた。
 腰を据えた上体で、

  「……立。」

 丁は、息子の名前を呼んだ――……。


  「……。」

 目の前に、真っ暗な闇が襲ってきた。
 ……癌?
 立は、他人事のように心の中で呟いた。
 瞳が右往左往する。
 焦点が合わない。

  「立……」

 力ない父親の言葉に、ようやく焦点をあわせる。

  「俺……癌、なのか?」

 ゆっくり立の口が開いた。
 沈黙が肯定を意味した。
 くるりと踵をかえす立。

  「立っ!!」

 父親の声が後ろでしたが、振り返る気力も、駆け出す気力もなかった。
 ゆっくりと、その足を病室に運んだ。
 ……何?
 何だ……?
 真っ白な廊下を無意識で歩く。
 意味がわからない。
 頭の中が真っ白だ。

  「立ちゃん?だめじゃない、寝てなきゃ……」

 病室の入り口に立つ母親は目に入らなかったかのように、通りすぎ――、

  「立ちゃん?」

 ……死ぬのか?

 立はベッドにもぐった。

 ……死ぬのか?俺。

 頭から布団をかぶった。

  「……立ちゃんどうしたの!……あなたっ!!」

 母親が病室をでていった。

 心臓が鼓動を打っていた。
 手で触れた。

 ……報い、なのか?
 今までの報いなのか、これは……。

 異様に静まり返った病室。
 時計の秒針が刻む音。
 一秒、一秒……。

 死へのカウントダウンに聞こえた。
 立は、両耳を塞いだ。
 強く、強く。

  「立くん……」

 ゆっくり耳を覆っていた手を放す。
 布団から、顔を覗かした。

  「如樹先生……」

 淹駕は静かに立の側に長い足を運ばせ、椅子に腰掛けた。
 真っ直ぐ見つめてくるその瞳。
 蒼くて強く優しい。

  「先生。……俺は……」

 涙のたまった瞳で見上げる立。

  「……立くん。後悔は、人生最悪の報いだ。」

  「……」

 ――後悔は、人生最悪の報い。

 落ち着いた威厳のある声で、淹駕は続けた。

  「既に後悔してしまったのなら、二度と同じことは繰り返すな。」

 立の肩を優しく叩いて、淹駕は後ろを向いた。
 立は、その広く威厳ある白衣の背中を、ただ見つめていた――……。


  「許してくれ、立。」

 丁は、立に向かって頭を下げた。
 もっと早く気がついていれば。と、唇をかみ締めた。

 ……何で、父さんが謝るんだよ。

 目の前で何度も、何度も頭を下げる父親。
 母親の姿はない。
 察するに、立の病気を聞いてショックを受けているに違いない。
 母親のほうが息絶えてしまいそうだ。

  「……父さんが、謝らないでくれ……」

 立は焦点定まらない瞳で、ゆっくり口だけを動かした。
 人形のような表情。

 ……全て、やり直そうと思った。
 やり直せると思った。
 でも。
 その後に続いたのは、深く暗い闇に支配された沈黙だけだった――……。


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